矢野玄道 (1823~1887)

 明治新政府が再興させた神祇官とは、上代の律令制度に見える神祇祭祀を職掌とする官制。当時の官僚制度は唐のそれに倣っているが、神祇官は太政官とともに二官を最上位に据えて並列させた日本独自のもの。大化改新以前から政事を諮る前にまず神祇を祭る神事の執行を恒例としたが、かつてその任には中臣氏と忌部氏があたっていた。だが時の経過で律令制は弛緩し疲弊していき、平安末期には神祇官の権勢も薄れてしまう。長官の白川家がこれを世襲するが、鎌倉期以降は次官の吉田家が神号や神職の階位を発行することで、全国の神職を支配するといった変容を見る。

 そして京都を焦土と化し、十一年に及んだ応仁の大乱はそれまでの体制を破壊し、伝統と権威をも踏みにじった。朝廷の祭祀儀礼も数多く途絶する。戦火で灰燼に帰した神祇官は廃頽し、吉田家の斎場所を以って神祇官代となり明治を迎える。明治初年の太政官布告により、「此度王政復古、神武創業始ニ被為基、諸事一新、祭政一致ノ御制度ヲ御恢復(後略)」し、神祇官制度を復興させるのだ。

 以前も触れたが、明治維新の改革の思想背景には平田国学が少なからず影響を与えている。平田篤胤の国学復古と敬神尊王の精神は、篤胤の死後に娘婿の鐵胤と孫の延胤によって引き継がれてさらに弘められ、幕末の社会の各層に浸透している。平田国学は篤胤没後のほうがその普及にめざましいものがあったようだ。篤胤が残した私塾・江戸の「気吹舎(いぶきのや)」には生前の門人が六百人、没後の入門者を“没後の門人”としたことで、全国各地の武士、神職、豪商、豪農といった指導的な有力者を含め、門人は三千人とも四千人ともいわれた。それら門人が徐々に変わり行く世情のなかに新しい時代の息吹きを感じながらさまざまな情報を持ち寄り、また地元へ持ち帰って行き、古(いにしえ)に帰る“御一新”に呼応したのだ。すなわち平田学派の国学者を中核とする“草莽の国学”の働きだ。この気吹舎には西郷隆盛もたびたび訪れたという。

 また篤胤は、仏教サイドに支配されていた神道関係者に、造化三神と特にそのなかの天御中主神を天の中央にあって宇宙主宰の絶対神とする神学的解釈や、不統一の神祇祭祀の在りようとその総括などを説いている。後年、大教院が祭神を決定する際に造化三神と天照大神を併せて四柱としたのも、その学説に拠ったものとされる。

 そして、“儒仏無くとも道は明らかになる”という篤胤の主張は、神代への回帰と復古神道の理念による実践運動を促がした。だが同時にそれは、武家の教学でもある儒学や朱子学、庶民の精神的指導の中枢にあった仏教との敵対する要因も孕んでいたが―。

島崎藤村(1872~1943)

 余談だが明治維新と平田国学を語り、当時の様相を伝えるのによく引き合いに出されるのが島崎藤村の『夜明け前』だ。

 中仙道馬籠で代々庄屋と宿場の本陣当主を受け継ぐ旧家に生まれた青山半蔵が主人公。半蔵は藤村の父・島崎正樹がモデル。第一部では、王政復古を説く平田学派に傾倒し、新しい時代に大きな光を見いだそうと希望に満ちたさまが描かれている。だが第二部では、夢が潰えて暗澹と失望の世界が広がっていく。志を持ち縁あって教部省に奉職するが、かつて維新活動に貢献したはずの平田国学の成果は無視され、門人達が新たな国づくりにも寄与できずにいる現実を知る。祭政一致や神仏分離など半蔵には幻でありウソだったのだ。“これでも復古なのか!”、失意のうちに木曽路に戻った半蔵は飛騨一宮・水無神社に奉職する。約三年の間宮司職を務めるが、次第に酒に溺れて隠居を迫られる。明治十九年の春の宵、半蔵は発狂し、菩提寺に放火。座敷牢に幽閉される日々を送り、そのまま五十六歳の生涯を閉じる。それは藤村がこの作品を書き上げた歳だが、半蔵が送った時代は、思えばまだ“夜明け前”だったのだ。

 少し長くなったが、この小説の当時の歴史的検証は高く評価されている。その背景から、幕末から明治への激動の時代の思想動向と行動哲学を垣間見ることができる。

 政変に伴う旧体制から抜け出す混乱のなかで、新政府もまた組織づくりに腐心している。

 王政復古の大号令が発せられたのは一八六八年一月三日(慶応三年・旧暦十二月九日)の新体制による朝議。幕府体制と摂政・関白制度の廃止と、新たに総裁・議定・参与の三職を置くという決議がなされる。これは徳川幕府の廃絶と、天皇に政権が移ったことよる新政府樹立の宣告にほかならない。

 三職の総裁は有栖川宮熾仁親王。三十名の議定の中には、神仏分離の通達以前に国学を重んじて葬祭を神式に変え、寺院の統廃合を推進していた津和野藩の藩主・亀井茲監(これみ)、参与に平田学派から平田鐵胤も名を連ねている。

 その一ヵ月余の後の慶応四年・旧暦一月十七日には三職をそのままに新たに職制を定め、神祇事務科以下の七科を置く。三名の神祇事務掛には平田学派から六人部雅楽(むとべうた)、樹下茂国、それに伴信友門下の谷森善臣の名が見える。

 更に一ヵ月も経ずに旧暦二月三日には七科を改め三職八局制となる。四名の神祇事務局判事は、さきの亀井茲監、谷森善臣、平田鐵胤、気吹舎門下にしてのちに皇学所講官から宮内庁に奉職し図書寮御用掛に任じられた伊予大洲藩士・矢野玄道(はるみち)。

 そしてまた三ヵ月も経たないうちの慶応四年閏四月二十一日、官制が改正されて三職八局制は廃止され、変わって七官制となりこれを太政官に置く。神祇事務局は改められて神祇官の設置となり、千年の年月を超えての神祇官の復活となる。神祇官副知事には亀井茲監と亀井公の家臣で気吹舎門下の福羽美静。七官外にある侍従職の侍講に平田鐵胤、矢野玄道(はるみち)と親交のあった玉松操、兼任の福羽美静の名もある。

 翌明治二年七月八日、七官制は神祇官と太政官の二官と六省制となり、神祇官は太政官の上位に置かれ、官職のトップに据えられる。神祇大副と神祇少副を兼任するのは福羽美静。このあたりから平田学派の名前は消えていく。一説には神祇行政を巡って内紛があったともいわれ、長州藩に近かった津和野藩の福羽美静が実権を握ったようだ。いずれにしろ神祇官は最高官位となるのだが、これは神祇への信仰で国民の統合を目論んだものだ。

 しかしその勢力にはなり得ず、二年後の四年八月には神祇官は神祇省に降格され太政官の所管に移される。さらにそれより一年も経たない翌五年三月、神祇省は廃され、替わって教部省が置かれる。その四年後、明治九年一月には教部省も廃止となり、従来の事務取り扱いは内務省社寺局に付せられる。

(奈良 泰秀  H17年11月)