サミュエル・P・ハンチントン博士

 或いは閣下の「文明の対話」の重視は、念頭にハンチントン博士の「文明の衝突」論もあったのでしょうか。ハンチントン博士の論旨は、

 「これからの国際政治に危険をもたらすものは、異質な文明を背景とするグループ間の対立」。そして、「今後の国際政治が悪化すると、文明の根幹であり且つ人々のアイデンティティの源泉である宗教が、この悪化の要因となる」。と謂うものです。

 この論点の根底には、イスラーム教を背景とするイスラーム諸国と、キリスト教が背景の欧米諸国との対立図式を想定していることは明らかです。日本でもハンチントン博士の評価は二分します。ある学者は、「…戦争の原因は、あくまでも物質的利害の対立や生活権上の利害抗争であって、人々を養っている文化でも宗教でもない。武力紛争や戦争は民族の違い、宗教の違いが原因で起こることはない。宗教があっても無くても、また属する宗教が同じであっても違っていても、人間は戦争をしてきたのである。文化や文明についても、同じことが言える―」。と言います。

 「―しかし、宗教が戦争を促進させる、と言う事実は認めなくてはいけない…」。と、ハンチントン博士は刺激的な論争のテーマを与え、今も議論の対象となっております。

 昨年の夏、私の研究会では高名なお二人の講師をお招きして《これから宗教に求められるもの》と題し、「衝突の回避」を探るセミナーを開催致しました。文化学界の重鎮で、九十五歳になられてもますますお元気な神道国際学会会長の中西 旭博士(注・2005年帰幽)は、「物質(もの)から霊魂(みたま)の時代へ ―天然(かむながら)(=維神)の覚醒(めざめ)の拡(ひろ)がり― 」が、テーマでした。行き詰まった西洋文明や資本主義にとって替わるのは、いのちの根源に目覚めた透徹した文明であり、「天津日嗣」の国、日本からの高次元文明展開の可能性を強調されました。もうひと方の若手の宗教学者・星川啓慈博士は、最近、「神々の和解 ―新世紀の命運は宗教が握る―」を上梓しましたが、「二十一世紀の宗教間対話 ―自己変革型の対話モデル―」を主題にされました。国際化のなかで自己の意識改革を促し、宗教は他者の真理主張を聴き、自らの概念枠を広げていくことで自らの真理は深遠なものになる…。そのようなお二人の講演は、聴衆のかた達に理解され共感を得ました。

 閣下は今回のご講演のなかで

 『…テクノロジーの無慈悲な攻勢や容赦ない破壊から人間と自然を救出するような、新たな方向性を明確にすることは、諸文化や思想の真正な泉に飛び込むことによってのみ可能なのです』。更に、

 『―そこではテクノロジーやそれがもたらした新たな科学や思想が激しい攻勢をかけ拡大を続ける中でも、自らのアイデンティティを喪失することはないのです。文明間の対話、文化の対話を提唱することは、まさに熟慮と直感への呼びかけに他なりません…』。

ローマ教皇 ヨハネ・パウロ二世(2005.4.2逝去)

と、おっしゃっておられますが、閣下が、異文明・宗教間対話を劇的に行動で示されたことを私は記憶致しております。一九九九年三月、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世と会談されたことが「歴史的握手」と言う見出しで、大きな写真とともに全世界に報道されました。お二人の歴史的対話での、ローマ法王の、『将来のために重要な一日でした』。閣下の、『平和と和解が勝利するよう願っています』。とのお言葉は、世界中に驚きをもって紹介されました。

 閣下のお言葉で、また私は、縄文時代から長い時間をかけ熟成させて来た日本の文明の背景を振り返ります。湿潤で温暖な気候、豊かな森林と水、海と山が恵みを与える環境風土は、独自の民族精神を形成して来ました。自然環境との共生と調和のなか、利他の心が養われ、対立より共存、征服より協調という「和」の精神が育まれました。この日本の「和」の精神を以って閣下と共に、我われも世界に向け対話の呼びかけに寄与できるものと確信しております。

 私は二十数年前、イスラーム教圏のマグレブを旅したことがございます。モロッコへは三度訪れました。気ぜわしい観光旅行ではなく、寝袋を担ぎ、気に入った町があればそこに何日か留まるというヒッチハイクでの貧乏旅行でした。夜明け前、寒村の駅の拡声器から流れるアザーン(注・礼拝への呼びかけ)に応えて貧しい路上生活者が起き出し、礼拝する姿を見ました。毎日、毎日、異郷でこのサラート(注・礼拝)を見ることで、私は日本人としての強い帰属意識を持つようになりました。私が自らの霊性を覚醒し、古神道の研鑚の道に励むことになったは、あのサラートと、「実践には意志が伴う」というニーヤ(完遂の意志)に起因すると今でも思っております。

 現在、閣下は六月(2001年)の選挙のことでご多忙な毎日を送られておられると思います。イランの国内情勢が非常に難しい状況にあることは充分承知しております。しかし、この一月にテヘラン市民を対象として実施された世論調査で、改革派の閣下の、再度の大統領への立候補を望んでおられる市民が八十三パーセントにも上ることも、存じております。

 閣下は日本の文化の禅に就きましても、

 『―(日本の)禅はわれわれに対して沈黙の卓越性や優位性を説いています。そこでは「聞く」ことによってのみ語りかけのできる沈黙があるのです…』。と、禅の真理をも思慮深く語られました。禅の精神で相手の語りかけを聞かれ、世界の指導者としてこれからも世界の平和のためのご活躍を期待致します。

 再度申し上げます。世界の文明間対話のためご尽力くださいますことを。また日本にお出でになる機会がございましたら、閣下のお考えの趣旨を伝えるためのご講演の開催をお願い致します。そして一人でも多くの人たちが閣下のお話しを聴くための努力を私共がさせて頂くことを、お約束させてください。

 閣下の平安と弥栄を祈念し、そして最後に閣下がローマ法王に語られましたお言葉を。

 『神が健康と成功をもたらしてくださるよう、祈ってください。』

平成十三年(2001年) 二月

「にっぽん文明研究所」   代表  奈良泰秀

 アーノルド・J・トインビーの学説を継承したサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」を、文明・文化の齟齬や文明の概念の論拠の曖昧さ、経済の過小評価などを指摘し、あまりにもお粗末などと酷評した学者もいた。だが九・一一同時多発テロが起きると、手のひらを返したように再浮上させ議論を始めた。

 世界の動きは速い。明日、何が起きるか判らない。「悪魔の詩」の著者・ラシュディの暗殺処刑を中止させ西欧諸国と接近を図り、イラン国内ではハータミーと呼ばれた巨星は世界の表舞台から消えた。明日は誰が現れるのか…。

(奈良 泰秀  H18年6月)