狭井神社 (華鎮社) の薬井戸

 弥和の御室嶺上宮に比定される三輪山山頂の高宮神社と山麓の神坐日向神社(みわにますひむかいじんじゃ)は、論社である。三輪山は太古より樹木に斧を入れず、神奈備山と仰がれてきた禁足地である。現在では入山禁止日以外の日の時間を決め、喫煙・飲食・撮影などのほか、草木・鳥獣・土石採取などの禁止事項を順守することで登拝を認めている。登拝のためには麓の大神神社摂社・狭井神社の社務所で住所氏名の申告が必要である。そして入山のための初穂料三百円を納め三輪山参拝証となる白襷を借り受ける。備えてある大麻(おおぬさ)で自ら修祓を行ない、心身を祓い浄めてから登らなければならない。

 境内地の山中は禁足地域が多い。山頂の高宮神社まで指定された一本の道を急がずに辿れば一時間近くで到着する。社殿は簡素な造りの小祠で、窪みをつくる小さな池のなかに鎮座する。かつてはこの地方の旱魃の際に氏子が登拝してこの社で祈雨祭を執り行う慣例があり、必ずその霊験が見られたという。現在も旱魃時には神職が斎戒沐浴をして祈雨祭を行なうともいう。神社の奥には露出した岩石群が連なり、注連縄を引き廻した奥津磐座がある。太陽神を祀る縄文時代を起点とする原始信仰の形態を、いまに伝える磐座である。

 この三輪山(御諸山)山頂が神聖さの象徴として夢に現れ、天皇の運命をも左右する。崇神紀(日本書紀・崇神天皇)四十八年正月の条にある。天皇は二人の皇子の夢で世継ぎを決めようとする。皇子たちは潔斎をして眠り、夜明けに見た夢のことを奏する。兄の豊城命(とよきのみこと)は、「自ら御諸山(みもろやま)に登りて、東(ひむがし)に向き、八廻(やたび)弄槍(ほこゆけ)し、八廻(やたび)撃刀(たちかき)す」。(自分で御諸山に登り、東に向かって八度槍を突き出し、八度刀を振りました)。弟の活目尊(いくめのみこと)は、「自ら御諸山の嶺に登りて、縄を四方(よも)に絙(は)へて粟を食(は)む雀を逐(か)る」。(自分で御諸山の嶺に登り、縄を四方に引き巡らして粟を食べる雀を追い払いました)。崇神天皇は二人の夢を比べ、兄は一方向の東に向かったことで東国を治めさせ、弟は四方に気を配り食べ物の稔りに気遣ったことで皇太子とした。兄の豊城命は上毛野君(かみつけぬのきみ)(群馬県)と下毛野君(しもつけぬのきみ)(栃木県)の始祖となり、弟の活目尊は後に十一代・垂仁天皇となった。

鎮花祭に授与する忍冬酒 (大神神社)

 山頂への登拝口がある狭井神社も式内社である。正式な名称は狭井坐大神荒御魂神社(さいにますおおみわのあらみたまじんじゃ)と謂う。祭神には大神荒御魂神を始め大物主神、その子の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)、その母の勢夜陀多良姫命(せやだたらひめのみこと)、事代主神の五柱の神を祀る。

 毎年四月十八日に、大神神社と狭井神社の両社では、花が飛散する陽気の頃に流行する病気を鎮めるための鎮花祭が執行される。大宝令(七〇一年)の「季春(すゑのはる)」の条で国家の祭りとして規定されている。また『令義解』(八三三年)の「季春(きしゅん)・鎮花祭(はなしづめのまつり)」には、〔謂(い)ふ、大神、狭井の二(ふたつ)の祭(まつり)なり。春の花飛散(ひさん)する時に在(おい)て、疫神(やくじん)分散(ぶんさん)して癘(れい)を行ふ。其の鎮遏(ちんあつ)の為に必ず此の祭(まつり)有(あ)り。故に鎮花(はなしづめ)と曰(い)ふ。〕とある。癘とはえやみで悪質な疫病・流行病のことを謂い、鎮遏の遏とは呪義により留め抑えるの意である。

 しかし古代研究の国文学者・折口信夫博士は、本来の鎮花祭とは稲が早く散らないようにと祈る予祝行事で、桜の花などを稲の象徴として散ることを遅らせようとする農事の祭りだったと解説されている。それが平安中期頃から、季節の変わり目に疫病神を祓い鎮める祭りに変化していったと謂われている。この神事では神に供える神饌に百合と忍冬は欠かせないが、何年か前からは邪気を祓うという桃の花枝を添えているようだ。狭井神社本殿横の井戸水は薬水として有名だが、疫病除けの祭りとなった現在の鎮花祭には、医薬品を献納する全国の薬業関係者の崇敬篤く賑わっている。

 医薬関係や酒造業の守護神と称えられる大神神社では、出生・家系・業績などがいまひとつ不明な大物主神の和魂(幸魂・奇魂)を祀り、狭井神社にはその荒御魂が祀られる。そして祭神の姫蹈鞴五十鈴姫命は神武天皇の皇后だが、神代紀では大三輪神の子される。別説では、事代主神が鰐になって三嶋溝樴姫(みしまみぞくいひめ)(或いは玉櫛姫)の処に通われて出来た子とも謂われる。この姫は、神代紀には大三輪神の子、神武後紀では事代主神の子と混同されているが、古事記には比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)として現れる。神武天皇と山百合の咲く狭井川の畔で結ばれ、三人の皇子を生んでいる。この姫の母の勢夜陀多良比売を大物主神が見初め、赤く塗った矢に姿を変えて大便中の姫の陰部を突き、後に結ばれるという神婚伝説は、丹塗矢伝説として語られる。同様の説話は京都の上賀茂の賀茂別雷神社と下鴨の賀茂御祖神の祭神にもある。賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の娘の玉依姫が川上から流れて来た丹塗矢を持ち帰り、火雷命の子・賀茂別雷神を生むという説話だ。

 丹塗矢は雷神の依代(よりしろ)で、記紀で母と娘の名前に共通するタタラとは製鉄に関わることを示唆する。勢夜陀多良比売・姫蹈鞴五十鈴姫とは鍛冶職の巫女のことであろう。神武天皇と姫蹈鞴五十鈴姫の結婚は、三輪山周辺で行なわれていた製鉄技術を、神武朝廷が吸収していく過程で政略的に行なわれたものと思われる。神武天皇の第三子で二代天皇となる綏靖天皇も姫蹈鞴五十鈴姫の妹、つまり叔母と結婚して皇后としている。大和王権と三輪一族との融和が必要だったのかも知れない。ちなみにタタラとは古代朝鮮語でもっと強く加熱する、といった意味だそうだ。

 縄文時代から弥生期を経て古墳時代への移行とともに農耕社会が整備され、三輪山の信仰も山、雷、水、蛇といった農耕に関わる信仰へ変移して行った。周辺にはいつの頃からかそれぞれの職能を持つ渡来系の人々も住み着いていたことだろう。

 さて、弥和の御室嶺上宮と比定される最後の一社は神坐日向神社である。大神神社の拝殿からかつて大神神社の神宮寺であった平等寺への道を辿って行き、更に細い道をはいった樹木が繁る小高い処に在る。小祠ではあるが延喜の制の大社である。社は北を向いて鎮座している。山頂の高宮神社は朝日を、この日向神社は日中の太陽を拝することで北向きとも謂う。森は大物主神の子等を祀ることで“御子の森”と称される。

 祭神は古事記に謂う大物主大神の子の櫛御方命(くしみかたみこと)、その子の飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)、さらにその子の建甕槌命(たけみかづちのみこと)の、大物主大神の子・孫・曾孫の三柱を祀る。この建甕槌命の子が意富多多泥古(おおたたねこ)(紀・大田田根子)で、先の賀茂(鴨)氏や三輪(神)氏はその子孫となる。しかし書紀では、大田田根子は天皇の問いに自らを大物主大神の子だと答え、此処の祭神の三代を省いた系譜を伝えている。その大田田根子が大物主神を祀ることで、疫病が止み五穀が稔り世の中は平穏となる。

 大物主神は前述の如く不可解な神である。記紀からははっきりしたその素性が見えてこない。災いを為す大物の神の筈だが、記紀編纂時に隠蔽されたことが窺える。国の平穏を願い、子孫に己を祀らせることを要求する記述から、“朝廷に土地の支配権は譲っても、氏神の祭祀権は譲らなかった。”とする意見がある。筆者も同じ見方である。

(奈良 泰秀  H19年11月)