皇大神宮(内宮)別宮・伊雑宮(いざわのみや)

 私共の研究会では少人数での古神道講座を開催している。この講座に就いてはいずれ折り見て紹介させて頂くが、半数以上は神道系・新教派系教団の関係者が受講しており、神職養成の役目を果たしている。この講座には祭式行事の基本作法や有職故実のほか、アカデミズムでは絶対に取り上げない課目の講義が幾つかある。学術的な研究の見地からの「風水学」、実践的な「陽明学」、古神道に見る「陰陽五行学」、「本田霊學」、「言霊学」といった内容だが、最近までは「古代神道史」として『先代舊事本紀・大成経』も課目に入っていた。最近までというのは、この講義に「大成経」を四十年近く掛けて研究し、解読編纂した須藤太幹氏にお願いしていたが、ご高齢のため病院との往復が多く、やむなく休講としているからである。他の講師にお願いして続けようと思ってはいるが、学校とは違い寺子屋式の気軽さでやっているので、別の講義内容に替えたままで今に至っている。

 このように言うと、かなりマニアックな世界に偏っているように思えるが、決してそうではない。むしろ逆の立場からそれらの知識を得て、中庸を保つよう指導している。古神道や神道に興味があれば『記・紀』に就いてある程度は識っていて当たり前というところから始めており、ポイントとなる部分にきり触れないが、アカデミズムから黙殺されてきた『大成経』は最初からでないと理解されない。もとより『大成経』は一般的には偽書とされている。そして、その成立に就いては、複雑な背景がある。

 もともとの原本とされる『先代舊事本紀』は聖徳太子が推古天皇の命を受け、西暦六二〇年・推古朝二八年に編纂完成の体裁をとっている。『日本書紀』に拠ると確かに同年、聖徳太子と蘇我馬子が諮って『天皇記』及び『國記』の、“臣・連・判造・国造・百八十部ならびに公民等本記を録す”と記されてはいる。だが、これはのちに蘇我氏に焼かれてしまう。

 翌六二一年に聖徳太子は没するが、その約二百年後の八二〇年代、平安初期に先のような推古期の聖徳太子撰録として『先代舊事本紀』十巻本が、世に現れる。神代より推古天皇に到るまでを記したこの歴史書の編者は不詳。事実なら七一二年・七二〇年完成の『記・紀』より更に古い史書となる。

 だが後年、江戸の初期となってから、聖徳太子以降の年代の記述、『記・紀』や八〇七年成立の『古語拾遺』からの引用、太子と敵対関係にあった物部氏の始祖・ニギハヤヒ伝承の重要記述などを指摘されて、偽書のレッテルを貼られてしまう。

 しかし、『記・紀』に例え百年以上の遅れがあったとしても、九世紀成立ならば内容は別としても上代の史書としての価値は持つ。偽書の烙印が押されるそれまでは、十種神宝、鎮魂神事の記述、「記・紀」には無い神話や多くの伝承などで、“『記・紀』より古い神書”として神道家や学者に支持されていた。室町末期に神・儒・仏・道・陰陽まで混肴させて元本宗源神道(吉田神道)を確立させた吉田兼倶は、これを『記・紀』と同列に捉え、三部の本書(神書)としている。また伊勢の外宮の祠官・度會氏によって提唱された外宮神道(伊勢神道)でも、この書は尊重されていた。

 だが、ひと度偽書とされたことで近世以降、充分に検証されたとは言えないまま現在に至っている。浮き沈みは世の習い、中世までは他の史書に埋もれて日の目を見なかった『古事記』とて、本居宣長が三十余年の研究を成さなければ、未だ唯の“雑書”の扱いだったかも知れない。推古期ではなく九世紀に成立した『舊事紀』の価値を、もう一度見直しても良いのではないだろうか。

伊雑宮の御神田

 そして、更に時が経ち、四代将軍家綱から五代綱吉に替わる間際の延宝七年(一六七九)、江戸の出版元から『神代皇代大成経』(『先代舊事本紀・大成経』)七二巻本が刊行される。その序文には、聖徳太子と蘇我馬子が編纂したものが、一部の社寺に秘匿されていたとある。それが世に出たという。大著ともいうべきこの書は、当時かなりの売れ行きを見たようだ。推古期に焚書の憂き目にあったかもしれない『舊事本紀』は、平安初頭に続き、千年の年月を経てまた新たに甦ったのである。

 のちに幕府は、神道家・長野釆女と黄檗宗の僧・潮音道海が、本来、日の神アマテラスを祀るのは伊勢ではなく当社であると主張していた伊勢志摩の伊雑宮と仕組んで発刊したものと断定。「大成経」の偽作性を断じ禁書とする。有罪の版元の追放、伊雑宮祠官らの流罪などの刑が決まるが、長野釆女は刑の執行前に病没。潮音は謹慎処分ののち上州館林の黒滝山不動寺に移され、その後、萬徳山廣濟寺を開山させ第二世に収まっている。

 講師をお願いしている須藤太幹師は、その偽作性を理解したうえで四十年近くに亘って『大成経』の解読に努めて来た。師は『大成経』は読んでみなければその格調の高さや中味の濃さは解らないという。天地開闢から神儒仏一体の教理まで、そのスケールは大きい。

 弾圧された『大成経』は当時の神社界や国学者に大騒動を巻き起こしたが、その後に現れる「古史古伝」の世界にも大きな影響を与えた。『秀真伝』やその同系の『三笠文』は、この『大成経』を下敷きにして成立させたとする研究者もいる。『大成経』に惹かれ、その解読をライフワークとして取り組んで来た須藤師のように、全文五七調で神代文字とされるホツマ文字で記された『秀真伝』にもまた、多くの支持者がいる。“アワのうた”が心身を整える歌というヒントから、身体の経絡に音の波動が流れるとして、それを整体治療に応用している鍼灸院がある。同じく『秀真伝』から薬膳料理のヒントを得ている薬剤師の方もおられる。「古史古伝」の伝承内容が意外な形で日常の生活に生かされている。機会があればこのようなことにも触れてみたい。

(奈良 泰秀 H16年5月)