朝鮮神宮

 

七月二十二日から二十七日までの六日間、国際会議「IIFWP・アセンブリ・二〇〇四」のお招きを受け、今回の開催地となった韓国を訪れる機会を得た。日本からの参加者は十五名。百八十を越える国・地域から二百名以上のゲストが集い、分科会等では連日熱心な討議が行なわれた。

私のとっては二度目の訪韓。毎日の忙しい会議の寸暇を割いて、担当の方にソウルの街を案内して頂いた。タクシーから見る街の景色は、二年前に来たときより綺麗になり、湧き上がる活気のようなものが感じられた。

始めに、ソウルを訪れた外国人が必ず行くであろう観光スポット・朝鮮李王朝の宮殿だった景福宮に向かった。暑い陽射しのなか、地元の人を含め、多くの観光客で溢れていた。

十四世紀半ば、高麗王朝を倒した朝鮮王朝の太祖・李成桂が風水地理学によって首都を定めて遷都し、此処に宮殿を造営したとされる。そしてこの宮殿は、十六世紀末、豊臣秀吉の文禄の役で一度焼失している。余談だが韓国ではこの秀吉を倒した徳川家康が、英雄として人気があるそうだ。

この由緒ある景福宮のかなりの部分を撤去し、前庭に、日韓併合(明治四十三・一九一〇年)の象徴として建てられたのが朝鮮総督府。着工後、九年半をかけ大正十四(一九二五)年の暮に完成。  当時、その重厚なネオ・ルネッサンス様式の建物は、壮大さで東洋一と称えられた。戦後は、政府庁舎・国立中央博物館などに使用されたが、現在は解体されている。戦前には、“北は北岳山を背景とする威圧的な総督府、南は南山の中腹から旧王都を見おろす朝鮮神宮”と、多分に象徴的な謂われ方をしたようだ。

私はこの朝鮮神宮に就いて、李朝末裔の関係者からこれを総括すべきことを幾度となく聞かされ、大いに興味は持っていた。その跡地とされる南山は、それ程遠くない。

南山はソウル市のほぼ中心。標高二六五㍍。全山が公園化されていて南山公園となっている。広場のなかの小規模な人工池の奥に植物園が見えた。この南山植物園が拝殿のあった場所と云われている。当然だが神社の跡地らしい痕跡はまったく見えない。

朝鮮神宮は用地約二十万坪。境内地・約七千坪。現在のこの一角に、民族独立運動の志士・安重根の遺品や文献等を展示した「安重根義士記念館」がある。此の場所に朝鮮神宮の社務所があったようだ。一説には京城神社跡とも云われているが定かではない。この記念館はそれ程大きくはない。建物の左側には、右手に太極旗を持って前進しようとする安義士の銅像があり、入口の周囲には幾つかの大きな石に刻まれた書碑が立っている。安重根は、明治四十二(一九〇九)年十月二十六日、満州・ハルピン駅に降り立った明治の元勲・伊藤博文を三発の銃弾で暗殺した。伊藤博文は初代の朝鮮統監を務めた。この四ヵ月前に辞任して枢密院議長となっていたが、ロシアの財務大臣との会談のための満州入りだった。

この朝鮮神宮が建立される前、此処には朝鮮の始祖ともいうべき檀君を祀る「国師堂」があったという。神社建立にあたってこの「国師堂」は西の仁旺山の移されたが、この場所は、もともとは韓国シャーマニズムの聖地とされていた。このことに就いてご交誼を頂いているイスラーム神学者の澤田沙葉師は、以前、次のようなレポートを発表している。

『…(略)日本が犯した最も重大な過ちがあることを指摘しなければならない。約六百年前に新しく李王朝を興した李成桂(太祖)が都を開城から漢城(現在のソウル)に移した時、太祖は南山に檀君を祀る「国師堂」を建てた。この国師堂は日本でいえば「伊勢神宮」とも言うべき重大な存在であった。日本は韓国を併合した時、その檀君の「国師堂」を取り壊して朝鮮神宮を建てたのである。朝鮮神宮は反日・抗日の精神的中心であった。(略)日本は戦後、連合軍の進駐を受けた。もし連合軍が伊勢神宮を取り壊してキリスト教会を建てたとするならばどのようなことが起こったであろうか?(略)これを考えれば日本が如何に重大な過ちを犯したか明らかである。その償いとして南山に「檀君国師堂」を再建、或いは「檀君記念館」を建立すべきではなかろうか?(略)』

かつて朝鮮半島には千百四十を超える神社が存在した。朝鮮神宮は全土の総鎮守にして唯一の官幣大社だが、その創建は神社関係者の組織的な働きかけから始まっている。九州地方の各県と山口県の神職約百名が「関西(かんぜい)神職連合会」を結成し、『韓国に神社を建設し、日本国民的教化の基礎を確立せられんことを韓国統監府に建白(略)』している。

朝鮮神宮は始め朝鮮神社として大正七(一九一八)年に建立された。その後、新たな建設に六年の歳月をかけ大正十四(一九二五)年十月十五日、官幣大社・朝鮮神宮として鎮座祭を執行した。総督府の竣工の約二ヵ月前。ご祭神は天照大神と明治天皇。竣成の半年前頃から、俄かに祭神に就いての論争が湧き上がる。この二柱に加え、「韓国歴代の建邦の神」を祭神にしない事は“人倫の常道を無視せる不道徳”との声が神道界から挙がる。“朝鮮の始祖たる檀君をも併せて祀れ”、という意見だ。声を挙げたのは当時の著名な神道思想家・今泉定助や、我々神職なら誰もが尊敬している葦津珍彦先生の父君・葦津耕次郎、靖国神社宮司・賀茂百樹などである。これに依り、神道人と政府関係者とは鋭く対立するが、結局、総督府は檀君奉斎反対の決定を下す。『檀君の事績を調査させたが実在の神かどうか不明、もし実在の神なら時機を見て祀る』。『鮮人に神及び神社の観念が無い。徐々に神祇の道を教えることが先』という理由でだ。

「檀君奉斎」は、植民地支配を“「国譲り神話」で合理化しようとしたとする理論”との意見がある。つまり、出雲の大国主命が天孫降臨の瓊々杵尊に国を譲った神話を、檀君と明治天皇になぞらえる、という見方だ。

いずれにしても現地の神を祀れという当時の神道人の声は、占領地下の神社建立に生かされていない。

終戦後、総督府は破壊されなかったが、朝鮮神宮は直ちに破壊された。皇民化政策の参拝強要などで、怨嗟の的になったのだろう。

(奈良 泰秀  H16年9月)