京都朱雀門

今年は、昨年十月に国内で起きた新潟中越地震に続き、年末のスマトラ沖地震・インド洋津波による大きな被害を伝えられるなかで年が明けた。未だに現地では混乱が続いている。これらの災害で亡くなられた方たちには、衷心よりご冥福を祈りたい。また、今回被災された国・地域で、なすすべもなく途方に暮れているひと達のためにも、一刻も早い復興を願うばかりだ。

俗の言われる天変地異という言葉がある。天変とは台風や竜巻、豪雨、日照りや雷、日食といった気象の変化、天の差配に依って引き起こされる異変を云う。地異とは地震や地震による津波、火山の噴火、洪水や雪崩れなど、地より生ずる異変を指す。

このところ、世界の各地で“天の異変”“地の異変”が多発しているように思う。今年に入ってから私共の所にも、教団関係者や識者から特定の土地を挙げての地震や火山の噴火の情報が寄せられる回数が多くなって来た。

だが、災害の発生に対する心構えを説くのは別だが、これを他人に伝え、間違えれば人心を乱し、社会の紊乱を招くようなことになるのは慎まなければならないと自戒している。

この天変地異、かつて古代の我が国では、神に対しての“人間の穢れが齎した罪”に依って神の怒りに触れ、それが罰としての災いが降り懸かってくるものとされていた。安定した政事(まつりごと)や祭事が、円滑に行なわれない場合に見られる自然現象の変調やそれによって引き起こされる旱魃・飢饉、疫病などは、なんらかの穢れで神の不快を買い、人間社会に与える神罰と捉えられた。

この穢れに就いてだが、十世紀初頭、平安初期に成立した国家の法制書ともいうべき『延喜式』(巻第三・臨時祭)には、具体的に穢れの事象が記され、忌む日数も規定されている。この『延喜式』については既に以前にも取り上げているが、それによると、

「凡(およそ)穢悪(ゑを)の事に触れて、忌むべきは、人の死は卅(三十)日を限り、産は七日、六畜(りくちく)(家畜、馬・牛・犬・羊・豚・鶏の六種)の死は五日、産は三日(鶏は除外)、其の宍(ししむら)を喫(くら)へるは(=肉食)は三日 ― 。」とあり、その他に改葬(三十日)、傷胎(=流産、四ヵ月以上は三十日、三ヵ月以下は七日)、失火(七日)、懐妊、月経、埋葬などが穢れとして載っている。

大別すれば、人間の死と出産、家畜の死と出産、失火などが穢れとされた。前回述べたことだが、この穢れに触れた者に接することで、その穢れがさらに乗り移る、つまり伝染して行くものと思われていた。

この「死穢」だが、現代に生きる私共の“死生観”や“葬送儀礼”の源流を探るのに避けて通れない。以前、このコラムで神道式での葬送儀礼を取り上げたが、このことはいずれ稿を改めたい。

死を穢れとし、忌むべきものと捉えていた当時、限定された建物の空間での死は禁忌された。清浄のなかで神に仕える神官が、死期が近くなると不浄屋に移ることを定めた神社の記録も残されている。一般庶民レベルでは死期が迫った病人や老人を、家や建物の外の、触穢の及ばない開放された空間である路上や橋、河原や原野に出すという行為が日常的に行なわれて来たのである。そこには、現在では信じられないような光景が見られた。路上や河原に放置されたままの死体を犬が喰いちぎって腕や足を咥えて走り廻る、いわゆる「喰入(くいれ)」が、当たり前のように見られたのである。そのような記述や、その他の穢れの発生した原因と、それに依って神聖な神祭が延引した当時の事情を、『小右記』(十世紀・藤原実資)、『左経記』(十一世紀・源経頼)、『中右記』(十一世紀・藤原宗忠)、『長秋記』(十一世紀・源師時)、『永昌記』(十二世紀・藤原為隆)などの文書に残されている。

余談だが民俗学者・柳田国男は著書のなかで、“古くは遺体の遺棄の習俗は一般的”であり「常民まだ今日いうがごとき土葬なるものを行わなかった」と論じている。公卿や官職にあった者は別として、一般庶民の、“遺体をそのまま放置する”習俗は、時代と共に「居邑(きょゆう)周囲の最も閑寂なる一地を劃定して、そこに死者を送って徐(おもむ)ろに魂と形骸の分離を期する―」(柳田国男)という葬法を伴なった習俗に変化して行っている。

始めに穢れとは、人間と家畜の死と出産、失火、改・埋葬、女性の月経、懐妊等、具体的に記されていると言ったが、特に“死”は恐れとともに典型的な穢れとされた。建物の中で死に立ち会うこと、犬が死体の一部を咥える「喰入」、家畜の死など、“死”に遭遇することは穢れであり、その穢れに接した者が他の者に接することで穢れは更に伝染する。神官始め、内裏に出入りする公卿・官人・供奉する者たちは穢れに細心の注意をはらっていたはずだが、それでも穢れに触れ、そのために国家的神祭の月次祭・神今食(新嘗祭)、祈年祭、伊勢奉幣使、春日・賀茂・石清水の三大勅祭などが、幾度となく延引或いは停止をしている。

この穢れの発生のため、また、延引・停止した神祭を再執行するために、大祓えが催行されている。

前回、祓えについては述べた。上代から行なわれて来たこの大祓えとは、本居宣長が云うごとく「祓の中に、ことに大祓といふ名は、一人の祓に非ず、廣く諸人の祓が故に、大とはいふ也」(大祓詞後釈)と、個人ではなく公(おおやけ)・社会・国家全体を祓う意味とされる。

『延喜式』(巻第一・神祇一)には、「六月晦日(みなづきのつごもり)の大祓(十二月は此に准ぜよ)。― 晦日の申時(さるのとき)以前に親王以下百官、朱雀門に會集して卜部(うらべ)祝詞を讀め」と、朱雀門での大祓えが規定されている。この大祓えは、天皇の仰せにより、平安京宮城の正面にある朱雀門において、親王以下諸臣・百官及び男女の者たちを集め、国家が社会万民のために催行した神事だったのである。

(奈良 泰秀  H17年2月)