黒住教 ・ 大教殿

有難いことだが、三年ほど前から幾つかの出版社から本の出版のお話しを頂いている。

だが、生来のずぼらで怠け者の性分、編集者と打ち合せはしてもいっこうに筆を進めようとしない態度に呆れ果て、連絡も寄越さなくなった出版社もあった。そのようななかで精神世界の本も出版している三五館の社長が自ら幾度となく話しをしに来られ、いつの間にかしっかりと四冊の本のテーマを決めてくれていた。信頼しているという編集者も付けて貰い、今年に入りそれぞれの本が刊行に向けてやっと動き出した次第―。

四冊の本の内容とは、無宗教の葬儀が増えていくなか神道式の葬送儀礼を見直し、更にその啓蒙と普及を目指す『神葬祭で逝く』。干支の『寅年生まれの運勢の本』。それと『元伊勢紀行』。そしてこの『神道つれづれ』のなかのテーマの幾つかを選んだもの。前回、石上神宮の鎮魂詞に就いて触れたが、先代舊事本紀研究の大野七三先生からまたお手紙を頂いた。毎回このコラムを切り抜き保存されておられるのには恐縮するばかりだが、是非とも饒速日神の復権を目指して欲しいとのお言葉。以前取り上げた物部神道と饒速日神に就いては、じっくり取り組みたいと思っております。

そして“元伊勢”の本だが、平成二十五年、九年後の神宮のご遷宮に向けて一般のひと達にもっと関心を持って貰いたいことと、側面から遷宮へのエールといった意味合いもある。来月三日には木曽の森林から御用材となる神木を伐る「御杣始祭(みそまはじめさい)」が催行されるが、それに先立ち今月二日、御杣山の山口に坐す神と木の神を祀る「山口祭」と「木本祭(このもとさい)」が執り行われた。これが式年遷宮事業のスタートとなる。深夜、秘密裡に行われて来た木本祭(このもとさい)は、今回初めて公開された。

この元伊勢だが、以前から興味を持っており、いつかは調べてみたいと思っていたテーマ。そのきっかけは些細なことだが、空手道部の合宿にあった。

私の母校は高校、大学とも國學院だが、大学の空手部から空手道部と名称を変えたクラブのOB会 「紫魂会」 の事務局長を、十数年に亘って引き受けている。四年任期の会長が四代替わっている。國學院大學の規模は小さいが、六年前に創部五十周年を迎えた空手道部は、少しは名を知られた栄光の時期もあった。

私が新入生で入部したとき、同期は五十数名。だが二年生に進級した時に残っていた者は僅か五名。九割が脱落した。四期下の代は百数十名が入部し、やはり九割以上が退部してOB会名簿には十三名のみ。稽古と上級生によるしごきが厳しかったということだろうが、同じ釜の飯を食ったという意識からか、筋金入りの猛者ばかりではないがそれなりに三百名のOB会の結束は固い。

私の七期下の代が全日本選手権大会を始め三大タイトルを総なめにしたことがある。チャンピオンになったチームメンバーのひとりが主将だった黒住忠弘君。黒住教の現六代教主・黒住宗晴氏の末弟である。忠弘君は東京で事業を興していたが、或る日、出社後に急逝する。月日のめぐりは速く、昨年東京でも十年祭が執り行われた。宗晴教主にはOB会の顧問をお願いしているが、平成八年だったか、岡山・黒住教本部の武道館をお借りして空手道部の夏期合宿を行ったことがある。地方への遠征合宿に出ると当然その土地と近県のOBが顔を出す。この合宿にも岡山在住のOBで、公家の顔付きとはこのような男の顔のことかと思わせる後輩が現れた。十何期か下のOBだが、神社の宮司である。名刺を見ると「内宮」とある。神社とか社(やしろ)といったものは付かないのかと聞くと、ありませんと云う。そしてうちは元伊勢の西限です、とも云う。それまでの元伊勢の知識は、伝承地が大和、丹後、伊勢地方あたりと思っていた。西のはずれならば、九州方面に向かって此処から先に元伊勢伝承の神社は無いことになる。更に後輩の神社は、伊勢の神宮創建より四十年程古い創始と言われていると云う。

もとより元伊勢とは、それまで皇居内に祀られていた天照大神が笠縫の地に移られ、其処から現在の伊勢・内宮に至るまで一時的に留まられ、鎮座奉斎されたと謂われる伝承がある神社或いは地域を指す。後輩との話しから元伊勢への関心は高まった。

それから何年か経って後輩の内宮を訪ねた。私共の研究会で開催している華道講座で備前焼の花器を揃えることになり、この後輩に知り合いの窯元の紹介を頼んでいた。

神社は小ぶりだが、清々しい気が漂っている。前の遷宮のときに下賜された解体用材が青いシートに包まれしっかり保管されていた。

空手道部・試合前の修祓 (右端 : 筆者)

ご祭神は天照大神、倭姫命、大己貴命。平易な由緒略記には以下のような文言がある。第十代崇神天皇の御代に“神威を畏れ給ひて共に住み給ふに安からず”と皇居と神居とが別けられ、天照大神は崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命を御杖代として大和国・笠縫邑に遷し祀られる。やがて丹波国、倭国、木ノ国を経て崇神五十四年(紀元前四十四年)、吉備国・名方浜へ御遷幸になられる。今より二千数十年にも及ぶ昔のこと。これが現在岡山市浜野の地に鎮座する「内宮」の創始だとしている。

そして今回、執筆にあたって神社本庁の教学にいる後輩から元伊勢の資料を送って貰った。それに記載されている神社は二十五社。比定地未詳が三ヵ所。岡山の内宮は入っていない。その点について訊ねると、神社本庁では特に元伊勢伝承の神社を押さえてはいないと云う。それならば比定地の神社で古文書などの記録が出てきて、うちも元伊勢だと名乗り上げれば元伊勢になってしまうのか?、と聞くと、そのようになってしまいますか…、といった返事。

自分の鈍間な気質は理解している。だが一旦取り掛かれば納得のいくまで調べたいと思うのも、また性分。研究会のスタッフに現地調査のための資料の蒐集を指示すると、元伊勢の比定地内の神社数はいつの間にか約六十社に増えていた。少し絞り込むというのを抑え、無駄もあるかも知れないが、この六十社を自分の眼で確かめたいという気になった。一気に全部を廻ることは不可能だが、多少本の発刊が遅れても満足するものを出したい―。

そして、鞄に岩笛を入れ、元伊勢巡りが始まった。

(奈良 泰秀  H17年5月)