飛鳥坐神社

朝夕の風に秋の気配を感じるが、今年の夏は例年の夏より暑いように思えた。母校・國學院大學の空手道部が太宰府天満宮の施設をお借りして夏期合宿を行なった。九州在住のクラブOBはじめ同窓の方も参加された懇親会に顔を出したが、九州の照りつく夏の陽の暑さを改めて体感した次第。

今回も元伊勢の続きだが、元伊勢とは当然昔から確定しているものとばかり思っていた、というお便りを頂戴した。この元伊勢、調べれば調べるほど、曖昧さの上に成り立った伝承であることを実感させられている。それは伊勢の神宮への信仰のみならず、それぞれの土地に棲む人々の、神々に対する信仰心に支えられた“曖昧な伝承の土着化”が現在に引き継がれているといってよい。

考えてみれば伊勢神宮の起源その他にも曖昧さは感じられる。古事記には、内宮・外宮ともその起源についての記述は無い。ただ天孫降臨の条に天照大御神の御霊代の神鏡と思金神の二神を“佐久久斯侶(さくくしろ: 枕詞=口の裂けた鈴のついた腕飾りの意)伊須受能宮(いすずのみや:五十鈴宮)に拝(いつ)き祭る。次に登由宇氣神(とようけのかみ)、此(こ)は外宮(とつみや)の度相(わたらひ)に坐(ま)す神なり”とあるのみ。ご存知のように現在の神宮に思金神は祭神として祀られていない。いつの間のか消えてしまっている。

日本書紀には、わずかだが内宮創建に至るまでの記事はあり、これがその後の元伊勢伝承を生む。内宮が創始して二千年。外宮の起源は内宮に約五百年近く遅れるが、それだけ紀の成立時に近いのに一切その記事は見えない。記紀成立より約一世紀近く遅れての延暦二十三年(804)に神祇官に提出されたのが『延暦儀式帳』。これは伊勢神宮の神主によって纏められた文献で、皇大神宮儀式帳と止由気宮儀式帳から成る。豊受大御神を祀る外宮の由緒は、この止由気宮儀式帳に拠っている。儀式帳と同じ頃に書かれた古語拾遺(807)にも内宮起源の記事はあるが、外宮のそれは無い。

さて元伊勢に戻るが、日本書紀にあるように、宮中から笠縫の邑(むら)に移された天照大神の神璽がその後倭姫命に託され、鎮まる處を求めて菟田の筱幡(さきはた)からさらに近江國に入り東の美濃を廻って伊勢に到ったのは何故なのか?。

皇学館ご出身でかつて神社本庁の総長を務められた櫻井勝之進先生は、ご著書のなかで指摘されている。“菟田の筱幡が謂われているように、現在の宇陀郡榛原町大字山辺の近傍であったとするならば、伊勢への経路として直ちに高見峠を越えて櫛田川沿いに東行するか、北に迂回しても伊賀の名張に向かうのが順当であろう”。紀の記述は誰が考えても極めて不自然なルートであるのに、“これまであまり問題にされた形跡がない”。倭姫命が伊勢に直行せず琵琶湖の北からいまの岐阜県内まで行かれてから伊勢に向かうのは、確かにおかしい。

そしてそのような迂遠な経路をあえて伝承したのは、何かそれなりの理由があっただろうと推測され、それは記紀成立の半世紀前に起こった、古代日本を二分した壬申の乱(672)ではなかったかと言われる。

壬申の乱とは、大化の改新を断行した天智天皇が、遷都した近江大津京で崩御の後、実子の大友皇子(後の弘文天皇)と、それまで身の危険を感じて奈良吉野に隠遁生活を送っていた弟の大海人皇子(後の天武天皇)との、叔父甥による骨肉の皇位争いの内乱。大海人皇子は東国での挙兵を目論み、わずかな人数を伴って吉野を発つ。伊賀の山を越え伊勢の海岸に着き、神宮に向かい武運を祈り天照大神を遥拝する。その後美濃に入り軍勢を集め、西へ下って近江朝に戦いを挑む。一説によると双方とも三万を超える大軍の戦闘だったようだが、最終的には大海人皇子が勝利する。近江朝は滅び、大海人皇子は都を飛鳥浄御原宮に移し、翌年、天武天皇として即位する。

櫻井先生は、紀の倭姫命の経路はこの軍勢とは逆の、近江から美濃を辿った記述になっており、大神巡幸を著した編者は、大神の神威をそびらかせて勝利を収めた天武天皇の事歴を想起したのではないか、と言われている。

蛇足だが天武天皇は天智天皇の弟というのが定説だが、実は異母兄説もある。古事記はそれまでの諸家の古伝承の誤りを匡す目的で撰録され、日本書紀は国家の威信を示す歴史書として編纂された。この記紀編修を詔勅したのは天武天皇。記紀の編修は、それまでの歴史を整理し新たな史実を創り、天武朝の皇統の正統性を伝えるのが目的とする説もある。

それと倭姫命が天照大神の御霊代を奉持して各地を巡幸されるとい

(第87代宮司) 飛鳥 弘文氏 と 筆者

ったことは、住吉大社や賀茂別雷神社などの祭神にも見られる。『山城国風土記』(佚文)には「可茂(かも)と称(たた)ふるは日向の曾(その)峰(みね)に天降(あも)り坐(ま)しし神、賀茂の建角身命也(たけつのみのみことぞ)。(略)大倭(やまと)の葛木(かづらき)山の峰に宿り坐し、彼(それ)より漸(やくやく)に遷(うつ)り山代の国岡田の賀茂に至り、山代河の随(まにま)に下り坐し、葛野(かどの)河の賀茂河と会ふ所に至り坐し、(中略)彼(そ)の河より上り坐し、久我の国の北の山基(もと)に定(しづま)り坐(ま)しぬ」とある。日向の曾峰に降臨した建角身命が、そこから大倭の葛木山の峰に移り、さらに山代の岡田の賀茂に至る。今度は山代川を下って葛野川と賀茂川の合流地に移り、また川を上って久我の国の北の山もとに鎮まった。あちこち巡ってやっと鎮座地に辿り付いたというのだ。

倭姫命の巡幸地が地名のみ記載されている日本書紀から、神宮関係の最古の記録書とされる皇大神宮儀式帳では、一転して巡幸地が増えて具体的な所在地が現れる。紀を潤色し、伝承を膨張させたものだ。

それは、倭(奈良県桜井市)の美和乃御諸宮からスタートして宇陀(奈良県宇陀郡)・阿貴宮。宇陀(同)・佐々波多宮。伊賀(三重県上野市)・穴穂宮。伊賀(三重県阿山郡)・阿閇柘植宮。淡海(滋賀県坂田郡)・坂田宮。美濃(岐阜県本巣郡か安八郡)・伊久良賀波宮。伊勢(三重県桑名郡)・野代宮。伊勢(三重県亀山市)・鈴鹿小山宮。伊勢(三重県津市か松坂市)・壹志藤方片宮。伊勢(三重県松坂市)・飯野高宮。伊勢(三重県多気郡)・多氣佐々牟江宮。伊勢(伊勢市)・磯宮。伊勢(伊勢市)・宇治家田田上宮を経て伊須須(五十鈴)の川上の大宮地に到る。

この儀式帳では倭姫命が供を引き連れ、各地の国造たちが田(神田)や神宮の経済を支える民の家・神戸などを献上しており、そこには政治的権勢の誇示が見える。これが近世に入って偽書説で糾弾された倭姫命世記となると、さらに膨らんであれこれ潤色されている。

この元伊勢の取材では多くの方にお会いした。最初に訪ねていろいろと資料を提供して頂いた大神神社はじめ他の神社のことも書きたいが、次の元伊勢は暫らく間を置いてからにしたい。

(奈良 泰秀      H17年9月)