戦前のテニアン神社 (昭和7年鎮座)

私はかつて神秘体験というか特異な現象に遭遇したというか、奇妙な体験を二、三度している。勿論、私は霊的な能力など持ち合わせてはいないし、そのようなことに就いてはむしろ鈍感なほうだと思っている。一度は特に強烈で、今にして想えば、その数分間の出来事が、まさに自分の生き方の転換を促した体験だったと思っている。

大学卒業後、父親の仕事を手伝い、その後独立して会社を興し事業に専念していたが、神道や神社の世界とは無縁な生活をしていた。また、高校生の頃、同人誌に籍を置いた繋がりから、前衛演劇との関わりがあった。海外公演の演劇活動を通して外国への関心が拡がった。寝袋を担いで日本と外国の行き来のなかで気付かされたことは、それまで考えても見なかった日本の文化や歴史を見直そうという気持ちであった。帰国後、神社本庁の神職資格を得、のちに仕事を辞めて瞑想と行の五年半、更に大学へ戻って神道の勉強をするための何年間かを送ることになる。

その間、ひとを介して私の師となる広島在住の神職・溝口似郎師と出会う。近衛将校だった師は中支、フィリピンの激戦地で優れた透視能力を発揮し、常に部隊の損害が軽微なことで有名となり、予言部隊長の異名で知られていた。戦後、戦犯死刑囚としてモンテンルパ刑務所に服役するが、のちに冤罪が晴れ死刑囚の汚名を雪いで帰国。その後は神明に奉仕され、戦没者慰霊にも東奔西走されてセブ島での忠霊塔建立を始め、沖縄や千鳥が淵などでの慰霊も熱心に行っていた。

以前、演劇活動の一環でグアム大学での公演をしたことがあり、これが縁で日本留学の経験がある地元チャモロ族の有力者と知り合った。この友人をサイパンに訪ねた折、農場のあるテニアン島に誘われた。このテニアン島では、終戦の一年前に一万人近い日本軍の守備隊が玉砕している。米軍の占領後、広島に投下された原子爆弾を搭載したB29爆撃機エノラ・ゲイが、ここから飛び立ったことでも知られている。

島に着いた翌日、友人に案内してもらいテニアン神社跡を訪れた。身の丈に近い草叢のなかに、鳥居と覚しき黒く焼け細った不揃いの二本の丸木が、空しげに立っていた。奥に小さな祠が見え、辛うじて神社跡を偲ばせた。

不思議な体験はここで起きた。

大祓詞を奏上し始めると、急に辺りの空気が変わったように思え、眼前の景色が左右からゆっくりと変化していった。僅か一㍍ほど先の筈が遥か遠景であるような、表現し難い奇妙な遠近感のなかに、一枚のセピア色に変色した古い集合写真のような情景が現れた。それは、何段かの白い石段からこちらに向って一様に頭を垂れ、一様に顔の見えない何十人、何百人という兵士の姿であった。軍服を著け直立不動で頭を下げている多くの兵士。腰を降ろしたまま頭を下げている兵士。白衣に戦闘帽で上半身を起こし、こちらに向い頭を下げている兵士。誰もがじっと微動もせず、無数の兵士が祝詞奏上を聞き入っているように思える姿だった。

奏上が終わると、またゆっくりと左右から景色が変わり、セピア色の情景は消えた。そこにはギラギラと照り付ける南国の太陽の光に草が蒸れる景色が戻っていた。始めは何が起きたのか理解出来ず茫然自失の態の私に、友人は何度も声を掛けたとのことだった。不思議なことに恐怖観念などは微塵も感じることは無かった。

あれから南方での戦没者慰霊に何度か足を運んだ。今次大戦で海外では軍人軍属と民間人を併せ、二百四十万人ものひとが命を落としているが、約半数近い百十七万余の遺骨は未だ放置されたままになっている。特に南方戦線での百三十万とも伝えられる戦没者の遺骨収集は、国や島によっては三割にも満たないところが多く、風化している。南方戦場の悲惨なことは食糧の補給が途絶え、銃弾による戦闘で戦死した以外の約九割は、餓死と栄養失調からくる余病だといわれている。こころが貧しくなったと言われても、我々は物には不自由しない生活を送っている。この豊かさも、異国で散ったまま故国に帰れない英霊の犠牲の上にあることを忘れてはなるまい。

初めてテニアン島を訪れてから二十年近くが経つ。いまは島に小規模だが神社が建立されたと聞く。あの灼熱の太陽の下での草叢のなかで起きた体験によって、私は神の実在を知らされたと思っている。そして時折り、セピア色の情景を想い出し、行き着くことはない神随の生き方を、未だ探っている。

(奈良 泰秀  H16年3月)