神葬祭

神葬祭 祭詞奏上

いま、葬送儀礼が曲がり角にきている。

現在、喪主を務め、葬儀と墓を主に必要としているのは戦後の団塊の世代、ベビーブーマーだと言われている。敗戦後の復興に尽くした親たちの許で高度成長期に育ったこの世代は、新しい価値観を持ち、新しい世界の創造と、自分に適したライフスタイルを築く生活を追い求めて来た。この世代は葬儀についてもこれまでの習慣に捉われない個人の選択肢を増やし、自分なりの葬儀の概念を持つようになった。更には宗教不信や無関心に依る無宗教意識からか、宗教色の無い音楽葬、弔辞と献花、花のみの葬儀、散骨といった葬儀の多様化を進行させている。

もとより葬送と儀礼の形態は、その時代の諸相を反映しつつ変化して来ている。現在の世相に観られるバブル崩壊から続く不況感、核家族、高齢少子化社会といった外的要因は、必然的に葬儀の変容を促している。

ごく一部を除き、伝統宗教である仏教式葬儀はいまも当然主流ではある。だが従来のような宗教性よりも、まず葬儀費用の軽減を優先するようになった。本葬の前に家族や身内の少人数でひそかに行なう密葬が、いつの間にか小規模の家族葬として定着し、本葬の無い密葬のみが独り歩きしている。いまの社会には将来に対する不安感や出口の見えない不景気感が根底に横たわる。まずは出費を抑える。近隣との親密度が希薄なことや、高齢者の退職後の寿命が延びそれまでの人間関係が減少していくことで、会葬者と香典が少ないことも無縁ではない。

かつて葬儀は、地縁と血縁との繋がりで形成された地域共同体にあって、相互扶助的に執り行われてきた。集落社会には村八分という陰湿な習慣が存在したが、遺体を処理するための葬送と、類焼を免れるための火事は除外されていたのを聞いたことがある。葬儀は死者を追悼しながらも周囲との関わりの再確認をする儀式でもあった。

その共同体意識も、戦後の産業構造に伴う

地方から都市への人口移動や、複雑化する社会の変革に流されて薄れていく。核家族となった人々は大都市とその近郊に創り出された新興住宅地に住み始めるが、其処にはそれまでのような相互扶助的機能は無い。同時に地方で先祖代々引き継がれてきた菩提寺と檀家との帰属関係は、居住地を変えることで徐々に切断され、それまで先祖から与えられて来た家の宗教や信仰は消失しつつある。

死の迎え方も変わって来た。以前、自宅で死を迎えることが当たり前だったが、現在のそれは二割にも満たない。八割以上のひとが病院で亡くなっている。死は家族を始め今までの人間関係の断絶を意味するが、病院での人任せの看護に頼ることは、家族の情や親密だったひととの絆を希薄にさせる。死者とそれを看取る側の者との交流が希薄化することは、死の無感覚化を促す。身近な者にとって死者を悼む気持ちは古来より変わらないと思いたいが、心から死を悲しんでいる遺族は約三割、というデータの数字が出ている。死は悲しまれない時代になった。

また、これも以前は一般的だった自宅での葬儀も、今では一割も行われない。通夜も告別式を兼ねた形態が多くなってきている。葬儀は外注化され、葬儀業者が主導で取り仕切り機械的に進められている。いまの儀式に、故人を想い、死を受け入れる時間的余裕などは無い。これから葬儀はますます小型化し、告別式を行なわない近親者のみの“密葬”が更に多くなっていくだろう。それもこのままでは、葬儀はこころの無い単なる死体処理の儀式となっていくのではあるまいか。

現代の死は、臓器移植のための脳死判定や安楽死、尊厳死など多くの問題点を我われに突きつける。それはいまの日本人の死生観を糾す機会でもある。死と葬送儀礼は表裏一体にあるが、この死生観の根本にある霊魂観・他界観といった観念体系を、改めて理解しなければならない時が来ている。

二年程前から九州地方をスタート地点として神道葬祭が増え始め、東上しているという情報が寄せられている。理由としては先に述べたような費用の低廉さ、加えて菩提寺とのしがらみや戒名は不要、宗教の匂いの線香もいらない、といったことのようだ。

仏教が渡来し、日本人の持つ祖霊観を習合させてお盆や彼岸、法事などを仏教行事として取り入れた。仏教式の葬儀に較べて神葬祭の数はほんの微々たるものだが、いまこそ日本人の普遍的な精神性の規範となる神道の精神を見直し、これに拠る葬祭を進める秋(とき)と考える。

しかし神道界において葬祭の基本となる霊魂観ひとつにしても、意識統一がなされていないのが実情だ。理論の未整理は、神道界をリードする神社界が神葬祭に熱心でないとも思える。教派系や神道系教団では教義教則に従いそれぞれが独自に葬送儀礼を行っているが、神道界全体で儀礼に対しての意識統一は諮れる筈だ。

私共の研究会では時代の即した真心を込めた神道式の一日葬儀の提言や、正しい神道葬祭の確立と社会に向けての啓蒙運動を行なおうとしている。今後、神社界、教派系、新教派系、諸教を問わず志ある者が協調しあい、世に神道葬祭を拡めるための運動を推進する仲間を募っている。

(奈良 泰秀  H16年4月)