離村した集落跡の「ふるさとの碑」

捜しあてた九頭竜川源流にある山中の台地には、柔かい晩秋の陽射しがそそいでいた。空は高く澄み、風は冷気を含んでいた。かつての神明神社の境内には枯れかけた人の丈を超える萱草が生え、小高い一角に三メートルを超す石柱がひっそりと立っていた。碑文には伊勢神宮仮鎮座跡と記されている。既に切り倒されているが、以前は神木と仰いだ根回り十三メートル、高さ五十三メートルにもおよぶ杉の巨木が屹立していたとか。スタッフ共々大祓詞を上げ、息を吸い込み、石笛を吹いた。渺々と響く音は辺りの空気を裂き、静寂な森にこだまを残して消えていった。

前回は目的地を捜せず引き返したが、車の前に不意に飛び出して道を横切る大きな野生の鹿に遭遇した。四十数年前に廃村となった集落跡は、人々が棲む生活感はまったく消えている。だがこの旧穴馬村とその周辺地区の歴史は古く、遥か縄文時代に遡る。千メートル級の山々の峰を縫う九頭竜川沿いに発掘された各遺跡からは、竪穴式住居跡を始め磨製石斧や石皿、深鉢や土器などが多数出土している。縄文時代は通常、一万三千年以上遡る草創期から早期・前期・中期・後期・晩期の六期に区分される。九頭竜川の河岸段丘周辺からは、早期から中期にかけての遺跡が発掘されている。上穴馬村と下穴馬村が統合して和泉村の新村名になったことは前回伝えたが、郷土資料館で購入した昭和五十三年に和泉村教育委員会が発行した『いずみ村の古代と埋蔵文化』には以下のように記されている。

「和泉村は縄文文化の宝庫として、古くから注目されてきました。ごく最近、土器の整理をしているうちに縄文時代早期の土器片が見つかり、和泉村の歴史も、いっきょに一万年前にさかのぼることになりました。(後略)」

古代の人々がこのような山間のわずかな河岸段丘の、日当たりの良い緑の土地を選んで棲んだことには理由があった。山と峪川があることで山菜や木の実を採取し、魚を獲ることができた。それと、木の実や球根のあくを抜いて保存食としていた澱粉をつくるのには、絶えず水が湧き出る泉とさらし場が必要だ。泉は段丘の崖などに多く見られる。この地方は多雨地帯で、雨水が山腹を流れる間に地下水となり砂礫層を伏流し、泉となり湧き出る。そのような環境のなかで比較的大きな集落も存在していたが、二十メートル四方の狭い範囲から五棟も密集した住居跡も見つかっている。すでにこの地と四国や東海・北陸地方とも交流があったようだ。今も遺跡の近くからはきれいな水が湧いているそうだが、この九頭竜川源流での太古からの生活の営みは、流域周辺に見られる水稲耕作と祭祀用銅鐸が出土する弥生時代や巨石信仰の痕跡を見せて、現代に至っている。

昭和四十三年に完成した九頭竜ダムの湖底には、五百三十戸が沈み、二千五百人が故郷を離れて他県などに散っていった。現在の和泉村の人口は八百人を切っているが、歴史が永いことで多くの伝説や民話が残っている。戦後、國學院大學で教鞭を執られた柳田國男先生は、農商務省の農務官僚を務めておられた頃の明治四十四年七月、この穴馬地方を視察されて『北國紀行』を記されている。農業政策から民俗学へと研究対象を発展させていった視点で、山間の地の気候や産業、生活慣習や習俗、家庭構成から女性の気質までも描写している。

旧穴馬にはかつて幾つかの鉱山が存在した。地元にある元伊勢伝承の情報を伝えている郷土史家は、私考としながらも、穴馬で産出したと思われる水銀の原料となる硫化鉱物の辰砂(しんしゃ)の採取と、元伊勢伝承との関わりを説いている。元伊勢伝承とは、当時の朝廷が各地の辰砂鉱脈を支配するために地元勢力と戦い、それに勝利して天照大神を祀っていった、としている。倭姫命の巡幸についてはさまざまな見方がある。皇學館大學の名誉教授である真弓常忠氏は著書のなかで「倭姫命の巡幸地はいずれも産鉄地に結びつくことは著しい」としている。辰砂採取に対して真弓先生は製鉄なのだ。このことは次回にゆずる。

辰砂は丹砂とも単に丹とも朱砂・真朱・朱ともいわれ、赤い色をも指す。水銀や朱色の顔料の原料となる辰砂は、中国湖南省の辰州から多く産出したことで辰砂といわれる。日本でも古代から辰砂の鉱脈は全国的に分布しており、透明で赤褐色の塊状や鮮紅色の結晶片で採掘されている。またこの辰砂の鉱脈からは、鉱物とは別に、多くはないが純度の高い上質な自然の天然水銀も点滴のままで採取していた。これは火山などで地殻が活動することで湧出する。

伊勢・丹生の水銀鉱山跡

三重や徳島などを始め、辰砂が付着した縄文期の石皿や磨石などが各地で発見され、当時はすでに辰砂を粉砕する精製法があったことが解明されている。土器や木製品への顔料利用のほかに防腐にもすぐれていたことで、朱色に塗られた死者の人骨や彩色された古墳の石室・壁画なども出土している。平城京の華麗な建物や寺院の柱などが鮮やかな赤に塗られ、朱漆や朱墨にも用いられた。また、仏像や金銅製品を造り、これに金メッキをする際には、辰砂を容器に入れて加熱し、気化した水銀を冷却させ液化状にし、この水銀と金とを化合させて溶かし、それを仏像など青銅品の表面に塗り加熱して水銀を蒸発させるという作業を行う。大仏建立などには当然厖大な量の水銀を必要とした。銅製の仏像も黄金色に輝く金銅仏にするには、水銀が無ければ不可能なことであった。東大寺の大仏鍍金のためには、二トンを超す量の水銀が使用されたといわれている。

『続日本紀』(講談社学術文庫)の文武天皇二年(六九八)九月二十八日の記録には、「近江国に金青(こんじょう)(紺青とも、青色の顔料)を献上させた。伊勢国には朱砂(すさ)・雄黄(ゆうおう)、常陸・備前・伊予・日向の四国には朱砂、安芸・長門の二国には金青・緑青(ろくしょう)、豊後国には真朱(まそほ)を献上させた」とある。同じく元明天皇の和銅六年(七一三)五月十一日に、「伊勢は水銀、相模は硫黄石・白樊石・黄樊石、(略)美濃は青樊石、飛騨・若狭は共に樊石(略)」を輸納させる、とある。古代朝廷も水銀や顔料を入手するのに腐心していたのだ。

古代には伊勢・紀伊・大和・阿波などに有力な水銀鉱脈が存在したとされるが、現代の我われが考えている以上に原料確保の熾烈な戦いがあったはずだ。中国の書物が伝えるには、水銀には用途によってさまざまな特質のあることで十数種の名称があるようだ。水銀は有毒だが、金属であり液体でもあるという相反する質を併せ持つ。成分が変化しない金と変化し易い水銀を、道教では不老不死のバランスをもつ組み合わせとされ、霊薬や神仙薬としても珍重された。

(奈良 泰秀  H19年2月)