ひょっとこ踊り

鉄の起源は古い。数十年前に古代オリエントの膨大な粘土板文書が発見された。その存在が知らされ、現在のトルコ国内にあって忽然と消滅したヒッタイト帝国が、紀元前十五世紀ころには製鉄を始めていた。だが、十何年か前にヒッタイト以前の製鉄炉跡が新たに発見され、製鉄開始は数百年さらに遡る。かの地にはいまから四千年も前に精錬技術があった。それに較べて中国での製鉄開始は、一千年以上遅れる。日本にその技術が導入されるのはさらに遅れるが、鉄器だけは縄文晩期に中国、朝鮮を経て輸入されていたようだ。

皇學館大學で教鞭を執られ、八坂神社宮司を経て現在は住吉大社の宮司職を務められる真弓常忠先生は、ご自分の視点から、倭姫命の巡幸地は、原始的な産鉄の地だったと謂われる。鉄分の多い河流や湖沼の水辺には葦や茅が生えている。それらの根元の茎に、微生物の作用で付着した褐鉄鉱石を含有した“スズ(鈴)”が筒状に蓄積され生育していく。古代の製鉄は、このスズ(鈴)を原材料に生産されていたという。当時の土器を焼く程度の熱度で鉄に還元されたらしいが、大量の植物材を火に燃やすだけで鉄を抽出する、まさに原始的な製鉄法だ。それは五・六世紀の帰化系の技術者による当時の進歩的な製鉄技術で普及した、磁鉄鉱石からなる砂鉄での「たたら製鉄」が行われる一時代前とのことだ。

この後に主流となるたたら製鉄は、さらに高い熱度の火力を得るためには簡単な溶鉱炉でも送風装置を必要とする。初めの頃は長いあいだ、もので煽ぐ方法や人間の口で筒などを使って吹くシンプルな方法が採られていた。大学に戻っていたとき三橋健教授が、“ひょっとこ”の語源は、たたら製鉄での“火を吹く男”が転訛したと言っていたことを覚えている。ひょっとこ面を付けて踊るユーモラスな安来節は江戸時代の末期に完成したが、どじょう掬いは“土壌を掬う”で、上古から出雲地方に伝わる川中の砂鉄採取の砂鉄と砂を振り分ける動作を取り入れたものだ。火吹き男が口で吹く作業も、後には進化してフイゴを用いるようになる。そのフイゴには鹿皮が最良とされた。鹿と製鉄もまた深い関わりがあった。鹿は藤原氏の象徴ともいえるが、藤原氏も当然武器を造る鉄の生産に関与していた。

鉄にまつわる説話には、倭姫命にかぎらず多くの神々の姿が投影されている。真弓先生は、製鉄に先行して造られていた銅鐸の“鐸”とはサナギを意味し、イザナギ・イザナミの両神は、このサナギの神だと謂われる。また、銅鐸と同じように鉄鐸もあり、それらは褐鉄鉱石のスズを多く収穫できるよう祈願を籠めて造られたものだそうだ。

鹿島神宮 拝殿

時折、お励ましのお手紙をくださる山陰神道の山蔭基央先生から最近またお手紙を頂戴した。常陸の鹿島・香取は鉄の集積地で、出雲・豊後の鉄とはどちらが古かったかを設問されておられる。そして神道は思想的には“畏み・恐み”であっても「国家経綸の大道」であり、太古神道は産業との関わりを無視することはできない、と言われる。国家の経綸は“兵道”にあり、兵道の基礎は“兵站”にあり、兵站の基礎は産業にある。さらに稲作は“水平を作り出す大土木工事”を主務とするもので、併せて道路や都の建設も大土木工事の事業であった、と仰る。

神道は時勢と共に動く。古代の争いや国造りの発展のために、神道も多くの神々がそれぞれの役割での働きを見せてくれる。それが史実と仮構が神道を絡めてない交ぜとなり、物語や伝承を生んでいく。日常生活の規範ともされる神道には、太古から持ち得ている“自然風土に宿る”神々の神威を頒かちあう信仰心と、“神と共にあるべき道”を探求して和を尊ぶ中庸の精神性が基底にある。“かくあらねばならぬ”という強制の確たる教義や教典を持たないことで、神道の曖昧さは抗争や排除より協調と融合の道を選ぶ。

弥生時代の後期、阿知使主(あちのおみ)は中国の戦乱を逃れ、十七県(あがた)の民を率いて帰化し、後の倭漢氏(やまとのあやし)の祖として大和朝廷に仕えた。政治経済の機構や軍事兵法の伝授を始め、製鉄製錬や土木建設、農耕養蚕、酒造、織物製紙など、あらゆる分野に帰化系の人々が当時の先端知識を駆使して仕事に従事していた。そのあたりのことは山蔭先生の大著『日本の黎明』や『日本神道の秘儀』に詳しいが、我われの先祖は、海外から渡来する人や文化や信仰を伴う宗教までも受け入れ、良いと思うものはそれを学んで吸収し、あるいは習合させ、風土に適した習俗や行事を新たに生み出して来た。それを定着させながら今日に到っている。

さらに真弓先生は、銅鐸が姿を消して弥生時代が終焉し、古墳時代がはじまったのは、さきのスズを採取しての原始的鉄生産から、砂鉄を採取する方法を会得したことによる、と謂われる。その後のいっそう大規模な製鉄技術は、天日槍などの神の名で語られる帰化系の技術者によって飛躍的に増大し、それは畿内では四世紀後半から五世紀初頭にあたり、“それが伊勢に及んだのが、外宮の鎮座を伝える雄略天皇の御世である。”という。

なぜか日本書紀には外宮の起源は書かれていないが、第二十一代の雄略天皇は五世紀後半に即位し、宋に上表文を送り『宋書』に記された“倭の五王”の一人の武王に擬せられている。多くの人を殺害して残虐な大王としても後世に名を残している。

さて、それでは原始的な初期の製鉄が行われ、倭姫命の巡幸と関わりがあったとされる時期とは、一体いつ頃なのか。当然それは当時を記した文書に拠るべきだろうが、はからずも『記・紀』の曖昧さを露呈させてしまう。

記紀の検証は、明治以降には万世一系の皇国史観に基づいて為されてきたが、戦後、それまでの神典から単なる古典に転落したことで様々な議論が沸騰した。第二代の綏靖天皇から九代開化天皇までは実在せず、後に創作された架空の天皇とする欠(闕)史八代説、初代神武天皇の即位が紀元前六百六十年ではなく、西暦百八十一年とする倍年説、天皇の不自然に長い寿命は、中国史書の“春耕秋収をはかり年紀となす”から半年を一年とする二倍年暦説などだが、天皇実在に破綻はないとする擁護説もまたある。

従来通りに神武天皇の即位を紀元前六百六十年として、日本書紀の記事に拠れば、紀元前九十七年に即位した十代崇神天皇の御世に天照大神の御霊代を皇女豊鍬入姫命に託し、倭笠縫邑に祀らせたのが紀元前九十一年。老いた豊鍬入姫命から離して天照大神を託された十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、伊勢国の五十鈴川上に天照大神を祀ったのが紀元前三年前だ。時は弥生時代中期である。

(奈良 泰秀 H19年4月)