青森・三内丸山遺跡の復元住宅

前号に続くが、弥生時代という時代の設定に到ったのは、明治十七年(一八八四)に、現在の東京大学農学部構内での土器の発見がきっかけとされる。弥生の名称は地名から採られた。東大農学部の敷地の所在地が弥生町だったことで、弥生式土器と命名された。アメリカの生物学者エドワード・モースが、汽車の車窓から偶然眼にした東京大森の貝塚で縄文土器類を発掘してから七年後のことだ。モースはダーウィンの進化論を日本に初めて紹介したが、大森貝塚の発見が日本の考古学の先鞭をつけた。その頃はまだ石器時代と縄文時代の時代区分などもなく、歴史は記紀神話から始まるのが当然のごとく信じられていた。その後、徐々に考古学・先史学が科学的に整備され、弥生が独立した一つの時代区分と確定されたのは、東大構内での土器発見から六十年以上も経ってからである。

だがこの弥生の時代設定は、かなりラフな決め方だったようだ。中国大陸の情勢変化の考証や、中国から渡って来た紀元前の製作の青銅鏡と一緒に出土した土器などを基準に、逆算されて決められた。自然のあらゆる事象を畏れかしこみ、そこに神を見出してきた心性や信仰心を内包した精神性は、一万二千年余の縄文期に形成されたとする筆者には、縄文から弥生への移行には非常に興味がある。

明治に古代史研究は緒に着いた。縄文から弥生の交代については、この半世紀に考古学・人類学サイドからいくつか学説が出されている。欧米の人類学者による、渡来系が縄文人を駆逐していったとする置換説、遺伝的には渡来系の影響はなく、土着の縄文人がベースとなり現在の日本人を形成したとする変形説、渡来系と縄文系が混血しながら古墳時代へと移行したとする混血説などがある。しかし未だ明確な解答は出されていない。この分野の科学的進歩もめざましいことで、今後に新たな発見も期待される。

我われの太古からの歴史はすでに解明され、その時代の概念は固定されているものとつい思いがちだ。だがそのようなことはない。解明されているのはほんの僅かにすぎない。江戸時代から知られていた三内丸山遺跡は、平成四年からの発掘調査で従来の縄文史観の見直しを迫った。縄文文化は野蛮と未開から創出されたものではない。草創期に続く九千年前から始まる早期には死者を埋葬する宗教性が確認され、高度な漆器類を製作する技術を身に付けていた。前期の中ごろには他の地域との交易が行われ、五千年前の中期には呪術的な土偶や石柱祭壇を造っている。ちなみに漆遺物については、中国最古の浙江省河拇渡遺跡の七千年前より函館垣ノ島のものは二千年も古い。福井県の鳥浜遺跡から出土した漆材は草創期の一万二千年前のものだ。漆に関しては中国が起源ではないだろう。

平成元年二月に、企業誘致のために計画された工業団地の造成が寸前に取りやめとなり、大規模に発掘されたのが九州佐賀県の吉野ヶ里遺跡である。弥生期の全国最大級の環壕集落跡の発見であった。『魏志倭人伝』の記述にも比定されるとしてこれをマスコミが大きく取り上げ、この年のゴールデン・ウイークには見学者数が累計で百万人を超えた。平成四年には天皇・皇后両陛下が行幸啓された。この吉野ヶ里遺跡からは青銅器の製造遺構を始め、木製の祭祀具、鉄器、銅剣、銅鏡、布製品、ガラス製管玉、祭祀用土器、朝鮮系の無文土器、ベトナム製陶器などが出土している。一千もの甕棺墓群からは、首の無い者や戦闘での殺傷跡のある人骨などが発見され、平和な縄文期とは異なった様相が見られた。以前から知られた三内丸山とは違い、吉野ヶ里の存在が初めて学術誌に紹介されたのは大正の終りだが、この遺跡が先例となりその後の広域遺跡の全面保存への道を拓いた。

閑話休題。さて、皇紀紀年法を成立させた神武天皇即位の記述がある日本書紀は、我が国最初の国書である。国の内外に向けて日本の歴史の長さを誇示し、天皇家の神聖な血統継承をしめすため、現在を過去に年代を投影させたものとされる。終戦と同時に皇紀はほぼ使われなくなったが、神社界では尊重されている。戦後、神典から古事記とともに一介の古典となった日本書紀の検証は、活発に行なわれて来ている。神武天皇は記紀の成立にあたって創作されたものとして実在しないとする説も有力である。併せて歴史も先の弥生時代に見るように、時代区分の見直しや呼称の変更などもある。三十年ほど前までの弥生時代に継続する古墳文化の大和朝廷は、いつの間にか仮名混じりのヤマト王権が一般的な呼び方となった。その成立も従来より早まって三世紀中葉からという見方になった。

年代区分が修正され、どのような史実があきらかになろうとも、脈々と息づく自然と人間との悠久の歴史の基底には、神道がある。民族的本能と無意識深層に受容された神道は、天運とともに生命の循環と共鳴しながら伝えられ、今日に生きている。またお便りを戴いた山蔭基央先生は謂われる。

“「神道を矮小化」しないこと…”。古代中国の天文学はアラビア伝来の天文学を取り入れた。これを学んだ天智・天武の両朝はかなり大きな視野で物事を見ていただろうと仰る。天智天皇の近江朝廷の選定は九星気学の奇門遁甲法に拠った。天武天皇もかなり学んだようだ。土木建設の工事を好んだ重祚の女帝・斎明天皇が延べ三万人を動員して築造した“狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)”は、陰陽道を取り入れている。

いま、中国の胡錦濤国家主席は中国の中心をローマに置いて考えている。これは孫子・呉子の八陣法の内、鶴翼の陣。極西をアフリカに置き、極東をアメリカとし、鶴首を東南アジアに置いている。壮大な布陣である。この孫子・呉子の八陣法を別の角度で拡大すると神武天皇御東征のスケールが見えてくる。天武天皇の奇異な行動もまた見えてくる。そして『倭姫命世紀』は偽書ではなく孫子での書き直しであり、元伊勢が西は吉備から東は浜名湖まで散らばっているのには意味がある。これを奇門遁甲法での考察をすると新たな展開が開ける。元伊勢と鉄との関わりでは、“常陸の鹿島”が捨て難い謎です。古代日本人は、かなりスケールの大きな人々であったと思います。「戦略的展開」という視野で視てください、あなたなら出来ると思います、との暖かいご助言とお励ましを頂戴した。新たな視点を与えてくださった山蔭基央先生には、この場をお借りして篤くお礼を申し上げます。

古代の人びとは、日月星辰・山川草木の大自然と触れ合い、研ぎ澄まされた感性や感覚で濃密な関わりをもって生活していたに違いない。現代に生きる我われは、便利さゆえにそれらを退化させてしまったのだ。

次号からは元伊勢伝承の社(やしろ)を廻る。

(奈良 泰秀  H19年5月)