倭大国魂大神を祀る大和神社 (奈良県天理市)

元伊勢の伝承に興味をもったのは十年以上も前だが、出版の話をいただいて本格的に資料を蒐め、伝承のある神社や土地を廻り始めてから四年近くが経つ。うちは元伊勢について何処よりも詳しい研究会になるよ、などと周囲に吹聴しているが、時おり出版社から、進みぐあいはいかがですか、と訊ねられ未だ確答できずにいる。伝承の比定地は三重県を始め、奈良、京都、滋賀、和歌山といった近畿地方を中心に、西の広島県福山市から東は静岡県浜名湖周辺まで点在している。近日中に五日ほどの日程で岡山・和歌山の伝承地を周る予定だが、当初は、元伊勢を掲げている神社はせいぜい六十社程度と判断していた。

だが、資料を蒐集していくうちに元伊勢の比定地・推定地とされる場所は、いつの間にか百数十ヵ所にも増えていた。なかには比定地の神社が遠く離れた神社に合祀され、伝承だけで元の神社が消えている例や、後世に作られた天照大神の説話の伝承が比定地不詳のまま残っているものや、明治の神仏分離令の発布で神仏習合から神社となり、勝手に伝承を創作したとおぼしきものもある。首都圏から離れていることで調査も思うように進まないが、現地に出向いて確かめたものを、そろそろ纏めようと思えるようにはなってきた。

そもそも元伊勢とは、天照大神の鎮座地を求めての、地名のみを記した『日本書紀』、九世紀初めに、伊勢両宮の年中行事や鎮座の歴史、神宝の細目などの詳細を記した神宮の公式文書の『皇太神宮儀式帳』、鎌倉時代に書かれた中世伊勢神道の教理書とも云うべき『倭姫命世記』の記事などが入り混じり、倭姫命の仕える天照大神が巡幸されたとして、各地に残されていった伝承である。書紀には僅かな地名が顕れるが、ここから伊勢神宮と伊勢神道は、平安時代から元伊勢伝承の種を蒔いて来たのである。それにはそれなりの意味があったのであろう。書紀から一世紀近く後に世に出た神宮儀式帳には、天照大神が具体的に各地を巡る起源伝説が出来あがっていた。

古代の書の形をとった後世の作の倭姫命世記ではさらに可飾され、天照大神を奉じた倭姫命の遍歴一代記として描かれている。世記の作者が具体的な土地や場所を想定したかどうかは不明だが、元伊勢伝承はひとり歩きを始め、各地に伝承を残して現在に到っている。

この元伊勢伝承の源流を辿れば、湧き水が流れ出すような日本書紀の一条の記述に至る。第十代・崇神天皇の御世の記事である。この崇神天皇六年の記事に、国内には疫病が流行して民の大半が死亡し、百姓の流亡や叛逆などがあり、世が乱れることで天津神・国津神への請願が行なわれたとある。天津神とは天照大神であり国津神は倭大国魂神(やまとおほくにたまのかみ)である。

だが、日本書紀に、それまで宮中に“同床共殿(ひとつみゆかひとつみあらか)”で祀られていた二柱の神に対し、「然れども、その神の勢(みいきほひ)を畏(おそ)れて、共に住みたまふに安からず」(しかしその神の威勢をおそれ、共に住むには不安があった)とあり、『古語拾遺』には、「漸(やくや)くに神の威(みいきほ)ひを畏(おそ)りて、殿(おほとの)を同じくし給ふに安からず」(徐々に神威に対して畏れる念が生じ、同じ宮殿内に奉斎することが平穏ではないと思われる)とある。

そして、それまでの同床共殿での奉斎の形態は変更され、皇居と神居は別となる。さらに二神は分離され、天照大神は皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されて大和の笠縫邑(かさぬひのむら)で祀られることとなり、国津神の倭大国魂神(やまとおほくにたまのかみ)は異母妹の渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に預けられて祀られる。だが何故か渟名城入姫は髪が抜け落ち、痩せさらばえて祀ることができなかったという。ちなみに古事記に祭祀形態の変更についての記事はない。

同床共殿の神勅は、天照大神が発せられた三大神勅のうちの一つである。“與(とも)に床(みゆか)を同じくし、殿(みあらか)を共(ひとつ)にして、齋鏡(いはひのかがみ)と為(な)す可(べ)し”〔(この鏡と)共に床を同じくし、殿舎を共にしてつつしみ祭る鏡とせよ〕と。さらに重ねて天児屋命と太玉命に、“爾(いまし)二神(ふたはしらのかみ)、亦(また)同じく殿(みあらか)の内に侍(さもら)ひて、善く防(ほせ)ぎ護(まも)ることを為(な)せ”〔お前たち二神もまた、同じ殿内に侍り(鏡を)よく守りの役をせよ” と、同床共殿・寳鏡奉斎の重要さを伝え、「侍(じ)殿(でん)防護(ぼうご)の神勅」を下している。この違反は許されない筈の同床共殿という形態の変更は、なに故に行なわれたのか。

その天照大神の神璽の遷祭について、神宮研究の大家である大西源一博士は、“神祇史の上から見ても、また皇室の皇大神御崇敬の上から拝し奉っても、我が日本の歴史の上に一新紀元を劃すところの、重大事であった(後略)。”(『倭笠縫邑の神蹟』)とみる。だが、その重大事を納得させられるような論調に出会ったことがない。

神社本庁総長を務められ二年前に帰幽された桜井勝之進先生は、学位を取得された『伊勢神宮の祖型と展開』で、その動機は、崇神天皇が徳治の限界を反省され、宮中で祀られていた“二神の祭祀において欠けたるを謝し、その加護のさらに厚からんことを祈るために、祭祀の形態に重大な変更が行なわれたということである。”と述べている。おなじように崇神天皇が疫病の流行や離農する人民を看て反省し、皇居の外の神聖な処で皇女に祀らしめることで政(祭)ごとの改革を図ったとする説もある。また、かつて皇學館大學で教鞭を執られた所功教授は著書の『伊勢神宮』で、天照大神を皇居の外へ遷されたのは、神事を軽視されてのことではなく、むしろ敬神の念が篤いからこそ、大神の宮居(祭場)と大君の皇居(政庁)を分立されたのである、と謂う。所教授の師で皇學館学長を務めた田中卓博士は「邸内の氏神から地域神へといふ画期的な発展」であり、“ヤマト地方における皇室の権威の確立を意味している”といった表現をしている。

だが、天照大神の神勅への背信については誰も述べていない。

初代神武天皇と十代の崇神天皇を同一視する見方がある。第二代綏靖(すいぜい)天皇から九代開化天皇までは実在しないとする欠史八代説については、以前触れた。神話から人代に移り、崇神天皇までの間に祭祀について重要と思える記述はない。神武天皇の記事に、天香山の土で土器などを造り諸神を祀ったこと、後に綏靖天皇となる神渟名川耳尊(かむぬなかはみみのみこと)とともに、異母兄を殺した度胸のない兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)が、皇位を弟に譲り神祇を奉る、といった程度のことである。崇神天皇の御世となり祭祀の形態が改められたのではなく、崇神から祭祀が創められたとする説も一考に値(あたい)しよう。

天照大神は御杖代(みつえしろ)として奉仕する皇女・豊鍬入姫命に託され、倭笠縫邑で奉斎されるが、歳月が過ぎ、崇神天皇が崩御される。崇神の第三子・垂仁天皇の代となり、天照大神は豊鍬入姫命から離して倭姫命に託された。

新たな御杖代となった倭姫命は、大神の鎮座地を求めて笠縫邑から巡幸の途に着く。

(奈良 泰秀  H19年6月)