仮殿に向かう「御羽車」

前回、私共の古神道講座では神道の流れを系統的に六つの流れに集約して指導していることを述べた。その筆頭に宮中祭祀神道を挙げている。菊のカーテンのなかで行なわれる神事に就いてさまざまな憶測をされることが多いようだが、今回はこの祭事を執り行う宮中三殿について触れてみたい。

先月、新聞記事で知ったが、宮中三殿の耐震劣化調査のため三殿のご神体を仮殿にお移しになる「奉遷の儀」が執り行われた。この三殿について私の知っている限りでは明治六年に皇居が炎上した際に類焼している。この火災により赤坂離宮を仮皇居としたが、同時に三殿も仮皇居に遷座している。明治二十一年(1888)、再建中の皇居と三殿ほかが竣工。明治天皇は神事を優先され、翌二十二年一月に現在の場所に三殿の遷座を挙行。その二日後に新しい皇居に入られている。三殿の建物は百年以上の風雪に耐え、今次大戦の戦災も免れて現在に至っている。

ご神体のご移動を「ご動座」というが、戦時中の昭和十九年に空襲を避けるため皇居内の防空壕にお移りになられ、終戦と共にお戻りになられてから今回行なわれるご動座は、約六十年振りだという。調査は今月下旬までかかるようだ。儀式は、二台の神輿(みこし)ようの「御羽車(おはぐるま)」と三台の駕籠ようの「御辛櫃(おからひつ)」に収められ、約六十㍍離れた仮殿にゆっくりと時間をかけてご移動された。天皇と皇后両陛下は三殿からご動座される際にその方向に拝礼をされたという。

宮中三殿は宮中の神社といって差し支えない。皇居内庭の吹上御苑の神域内にある「賢所(かしこどころ)」「皇霊殿(こうれいでん)」「神殿(しんでん)」の三殿を謂う。

この三殿に付随して宮中祭祀にあっても最も重要な、天皇御自らが新穀を神の供える新嘗祭を執り行われる「神嘉殿(しんかでん)」、天皇皇后両陛下が御装束に着替えられる綾綺殿(りょうきでん)、神楽舎(かぐらしゃ)、奏楽舎(そうがくしゃ)、幄舎(あくしゃ)等の建物がある。

この聖域構内の広さはおよそ八千二百平方㍍といわれている。三殿は総て南向きで建物の構造は同じだが、中央が賢所、その西方に皇霊殿、東方に神殿が在り、賢所は他の二殿より規模も大きく、床の高さも他より三十㌢ほど高くなっている。賢所の広さが約七十平方㍍、皇霊殿と神殿の広さが約四十平方㍍程度のようだ。

「賢所」のご祭神は天照大御神。「皇霊殿」は神武天皇より昭和天皇までの御歴代の天皇・皇后・皇妃と皇族の方々の御霊を祀る。崩御・薨去されて、一年後に合祀される。

「神殿」は天皇を守護される八神と天神地祗のすべて、八百万(やおよろず)の神々を奉祀する。

宮中三殿で最も神聖で重要視されるのは賢所だが、此処には天皇皇后両陛下、皇太子ご夫妻、御側にお仕えする掌典職・内掌典の方以外は、殿舎に立ち入ることが出来ない。

皇祖・天照大御神を祀る賢所のご正体は、八咫鏡(やたのかがみ)である。天照大御神が皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に「私の御魂として私に謹み仕えるように祀りなさい」と言ってお授けになる。伊勢の神宮に八咫鏡の御本体があり、この賢所に在すのはその別御霊(わけみたま)を戴いた御分身とも云えるものである。

御本体の歴史を辿れば、誰もが知っている天照大御神が天岩戸に隠れられたことから始まる。世の中は闇黒となり、天の安河原に数多の神々が集い、思金神を中心に善後策を話し合う。協議の結果、大御神の御心を慰めるために石凝姥命(いしこりどめのかみ)に鏡を作らせる。大御神は外の歌舞に興ずる気配に僅かに岩戸を押し開き、この鏡に映ったご自身の姿を見るのだが、石凝姥命が作り奉ったこの鏡がのちの八咫鏡となる。瓊瓊杵尊は神勅と共にこれを与えられるが、神代のときを経て人皇・初代神武天皇に伝えられる。歴代天皇は天照大御神が瓊瓊杵尊に伝えられたようにこれを奉斎し、宮中での同床同殿で時を送るが、十代崇神天皇は同殿では神威を汚す恐れがあるとして大和の笠縫邑(かさぬいむら)に神殿を建立し、此処に奉遷する。次の十一代垂仁天皇に到り皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、神鏡を奉祀するに相応しい清浄な土地を求めて各地を訪ね歩き、遂に伊勢の五十鈴川上流にこれを見定め、伊勢の神宮の創立をみる。

この時に新たに神鏡が作られ、以後、御分身の神鏡として宮中に鎮祭され、現在に引き継がれている。永い間、賢所は京都御所の温明殿に奉斎されていたが、明治二年、東京遷都に伴い現在の皇居内に遷座された。

この賢所に就いては連綿と神威を畏み奉祀されてきたが、皇霊殿と神殿は明治になり宮中祭祀の制度が整備されたことに依り成立した。明治新政府は明治二年に大宝律令の制に倣い太政官と神袛行政を司る神袛官を再興させた。だが僅か四年でこの神袛官は太政官の下部組織に組み込まれるという混乱のなかで、宮中祭祀のみは現在のような制度が確立されていった。

皇霊の祭祀は古代より御陵で奉仕されてきた。これを明治天皇は“新に神殿を造り、神器と列聖皇霊とをここに奉安し…”と詔書で述べられている。これに依り皇霊殿が設けられ皇霊が鎮祭されるようになった。

また神殿には、古くから天皇を守護される八神を奉祀してきたが、これにひろく天神地祇、八百万の神々すべてを祀るようにした。八神とは以下の神々である。神産日神(かみむすびのかみ)、高御産日神(たかみむすびかみ)、玉積産日神(たまつめむすびのかみ)、生産日神(いくむすびのかみ)、足産日神(たるむすびのかみ)、大宮売神(おおみやめのかみ)、御食津神(みけつかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)。

この八神の神々が何を司るのか、なに故にこの八神なのか、いずれ機会があればこれに就いても述べたい。

(奈良 泰秀  H16年7月)