長寿の霊木とされる桃の花

三月は春の息吹を実感する月で、弥生三月ともいいます。陰暦での弥生は現在の四月ごろですが、この春たけなわの時期は、萌えいずる草木がいよいよ生(お)い茂り盛んになることで「弥(いや)おい」といい、それが「やよい」になったといわれます。この月の別の呼び名には、花見月(はなみつき)、染色(しめいろ)月、桜月、季春(きしゅん)、桃月(とうげつ)、雛(ひいな)月、夢見(ゆめみ)月など、たくさんあります。

三月といえば、ぼんぼりに明かりを灯すひな祭り、桃の節句です。節句は節供(せっく)ともいい、ルーツは中国で、節は季節の変わり目のこと。一年の季節の変わり目に五つの節日(せちにち)を設け、その節目節目を無事に過ごせるよう邪気を祓い無病息災を願う行事が「五節供」となりました。五節供とは、一月・人日(じんじつ)、三月・上巳(じょうし)、五月・端午、七月・七夕、九月・重陽(ちょうよう)の節供をいいます。節供は季節の節目に供え物をするという意味もありますが、その時季の植物から生気をもらい、邪気を祓って長寿健康を願う行事でもありました。一月のみは一日が年の始めになるので七日に設定され七草の節供、三月・桃、五月・菖蒲、七月・笹、九月・菊と、当時薬用となる植物が選ばれました。

中国では古くから陰暦三月初めの上旬の巳(み)の日・上巳に、水辺に出て禊ぎを行ない、酒宴を催して災厄や不浄を祓うという習慣がありました。三日が上巳の日にあたることが多いので、三世紀の中ごろには上巳、または元巳(げんし)という呼び方はそのままに、三月三日に日を定めて行なうようになりました。三が重なるので重三(ちょうさん)の節句とも言います。

そして水辺での宴(うたげ)の習慣も、次第に清らかな水流に臨んで行なう風雅な宴遊に変っていきました。参会者は庭園などのゆるやかに曲がりくねって流れる小川の曲がり角に坐り、上流から流れてくる杯(さかずき)が自分のところに着くまで詩歌を詠むというもので、終ると別席に宴を設(しつら)え、詠んだ歌を披講する「曲水(きょくすい)の宴」といわれました。「ごくすい」が正しい読み方ですが、曲水の宴も上巳の水辺の祓えも日本に伝えられ、まず宮中行事となり、次に上流社会に広がっていきます。

上巳の祓いは「巳の日の祓い」となり、陰陽寮の陰陽師がつくった人形(ひとがた)に天皇が息を吹きかけ、さらに身体を撫で、これを常用しているお召し物と一緒に河川に流すという儀式になります。穢れを移して海川に流すこの人形に女官たちが色とりどりの衣を着せたようで、次第に宮中や公家の子女が着飾った人形であそぶ「ひいな遊び」へと発展していきます。このように罪穢れを託す祓えの人形は、雛流し、流し雛、雛送り、捨て雛など、現在も各地に残る行事になる一方、ひいな遊びの人形は装飾されて三月節供の祭り雛に発展していきます。

さらに室町時代になり中国から顔料の胡粉(ごふん)を塗って作る人形技術が伝えられると人形はいっそう豪華になり、この頃から坐り雛がつくられ、庶民にもひな祭りが浸透していきます。現在のようなひな段の形式が完成したのは江戸時代の元禄のころです。

女児の健康を願うひな飾り

ひな人形には、生まれた女児にふりかかる災厄の身代わりとなり、健やかに育つのを見守ってもらうという両親の願いも込められ、男児の端午の節供とともに女児のひな祭は盛大な年中行事となりました。

ひな人形は今でもさまざまな材料でつくる願いを込めたつるし雛など、独自の変り雛が作られてきます。ひな祭りに欠かせない白酒は元禄時代に甘酒から変わったもの。中国で邪気を祓い長寿の霊木とされる桃は日本でも尊重され、実も多く多産の象徴とされ、桃の神秘な力に女児の成長を託すと信仰にもなりました。

また、宮中行事となった曲水の宴は中世に途絶してしまいますが、戦後の昭和三十年代以降、九州・太宰府天満宮、京都・上賀茂神社、岩手県・毛越寺など各地の社寺が再興させ、雅(みやび)な風情をいまに伝えています。

三月に忘れられないのは春分の日の春のお彼岸です。春分の日を中日にして前後三日間をお彼岸として先祖の霊を敬う仏事は、神道の思想を取り入れた日本独自のもので、他の仏教国にはありません。

太陽が真西に沈むこの日に極楽浄土への道が開けるという信仰は、江戸時代に高まり、根強く伝承されてきたのです。

三月といえば、ぼんぼりに明かりを灯すひな祭り、桃の節句です。節句は節供(せっく)ともいい、ルーツは中国で、節は季節の変わり目のこと。一年の季節の変わり目に五つの節日(せちにち)を設け、その節目節目を無事に過ごせるよう邪気を祓い無病息災を願う行事が「五節供」となりました。五節供とは、一月・人日(じんじつ)、三月・上巳(じょうし)、五月・端午、七月・七夕、九月・重陽(ちょうよう)の節供をいいます。節供は季節の節目に供え物をするという意味もありますが、その時季の植物から生気をもらい、邪気を祓って長寿健康を願う行事でもありました。一月のみは一日が年の始めになるので七日に設定され七草の節供、三月・桃、五月・菖蒲、七月・笹、九月・菊と、当時薬用となる植物が選ばれました。

中国では古くから陰暦三月初めの上旬の巳(み)の日・上巳に、水辺に出て禊ぎを行ない、酒宴を催して災厄や不浄を祓うという習慣がありました。三日が上巳の日にあたることが多いので、三世紀の中ごろには上巳、または元巳(げんし)という呼び方はそのままに、三月三日に日を定めて行なうようになりました。三が重なるので重三(ちょうさん)の節句とも言います。

そして水辺での宴(うたげ)の習慣も、次第に清らかな水流に臨んで行なう風雅な宴遊に変っていきました。参会者は庭園などのゆるやかに曲がりくねって流れる小川の曲がり角に坐り、上流から流れてくる杯(さかずき)が自分のところに着くまで詩歌を詠むというもので、終ると別席に宴を設(しつら)え、詠んだ歌を披講する「曲水(きょくすい)の宴」といわれました。「ごくすい」が正しい読み方ですが、曲水の宴も上巳の水辺の祓えも日本に伝えられ、まず宮中行事となり、次に上流社会に広がっていきます。

上巳の祓いは「巳の日の祓い」となり、陰陽寮の陰陽師がつくった人形(ひとがた)に天皇が息を吹きかけ、さらに身体を撫で、これを常用しているお召し物と一緒に河川に流すという儀式になります。穢れを移して海川に流すこの人形に女官たちが色とりどりの衣を着せたようで、次第に宮中や公家の子女が着飾った人形であそぶ「ひいな遊び」へと発展していきます。このように罪穢れを託す祓えの人形は、雛流し、流し雛、雛送り、捨て雛など、現在も各地に残る行事になる一方、ひいな遊びの人形は装飾されて三月節供の祭り雛に発展していきます。

さらに室町時代になり中国から顔料の胡粉(ごふん)を塗って作る人形技術が伝えられると人形はいっそう豪華になり、この頃から坐り雛がつくられ、庶民にもひな祭りが浸透していきます。現在のようなひな段の形式が完成したのは江戸時代の元禄のころです。

ひな人形には、生まれた女児にふりかかる災厄の身代わりとなり、健やかに育つのを見守ってもらうという両親の願いも込められ、男児の端午の節供とともに女児のひな祭は盛大な年中行事となりました。

ひな人形は今でもさまざまな材料でつくる願いを込めたつるし雛など、独自の変り雛が作られてきます。ひな祭りに欠かせない白酒は元禄時代に甘酒から変わったもの。中国で邪気を祓い長寿の霊木とされる桃は日本でも尊重され、実も多く多産の象徴とされ、桃の神秘な力に女児の成長を託すと信仰にもなりました。

また、宮中行事となった曲水の宴は中世に途絶してしまいますが、戦後の昭和三十年代以降、九州・太宰府天満宮、京都・上賀茂神社、岩手県・毛越寺など各地の社寺が再興させ、雅(みやび)な風情をいまに伝えています。

三月に忘れられないのは春分の日の春のお彼岸です。春分の日を中日にして前後三日間をお彼岸として先祖の霊を敬う仏事は、神道の思想を取り入れた日本独自のもので、他の仏教国にはありません。

太陽が真西に沈むこの日に極楽浄土への道が開けるという信仰は、江戸時代に高まり、根強く伝承されてきたのです。

(奈良 泰秀 2009年3月)