阿紀神社

神慮を体して仕える御杖代として天照大神を奉斎してきた豊鍬入姫命は、日数を重ね老いたことで、その役目を姪の倭姫命と交替した。『日本書紀』には、それまで倭(大和)の笠縫邑で大神を奉じてきた豊鍬入姫命が、何処(いずこ)の地で倭姫命と代わられたのかは記されていない。『皇太神宮儀式帳』では美和乃御諸宮(みわのみもろのみや)、『倭姫命世記』では(六)弥和(みわ)の御室嶺上宮(みむろのみねのかみのみや)で代わられている。書紀と儀式帳では、この地から大神の鎮座される“可怜(うま)し処”を探し求める倭姫命の巡幸が始まっている。世記では、豊鍬入姫命が丹波、大和、紀伊、吉備をめぐり、ふたたび大和に戻って来ての交替である。

書紀には「爰(ここ)に倭姫命、大神を鎮坐(しづめま)させむ處を求(ま)ぎて、菟田(うだ)の筱幡(さきはた)に詣(いた)る…。」と倭姫命は菟田に行き、更に近江國、美濃をめぐって伊勢國に到ったとある。書紀より八十年以上遅れて成立した儀式帳には、「その時、倭姫内親王、太神(おほかみ)を頂き奉りて、願(ね)ぎ給ふ國に求(ま)ぎ奉る時に、美和の御諸宮より発(た)ちたまひて、出でおはしましき…。」とあり、書紀の経路をなぞりつつ、倭姫命は儀式帳に十数ヵ所の足跡(そくせき)を残すことになる。そして遂に、“朝日の来り向ふ國、(略) 大御意(おほみこころ)鎮り坐する國”と称える伊勢に到着された。儀式帳の伝承地については以前列挙しているので割愛する。

古代の撰述を擬した中世・鎌倉時代の書物である世記は、またの名を太神宮本記と謂われ、伊勢神道(度会神道)の根本教典とされる神道五部書の一書である。その記述には記紀や儀式帳、古語拾遺、延喜式などからの流用や、豊鍬入姫命の巡幸記を勝手に創作したとして、江戸中期から偽書説の批判に晒されて来た。その急先鋒だった神道家の吉見幸和は、世記の豊鍬入姫命の事跡に就いて、「(略)実ニ作者ノ私為(しい)偽妄(ぎもう)言語道断ノ至リ、喩(たとえ)ヲ取ルニ物ナシ(略)」と糾弾し、「(略) 己ガ勝手ニ引カケテ作文ヲナシ、丹波ヤ備前マデ神幸アリシト偽レル者ナリ。」と手厳しい。

しかし、世記は他書を流用しながらも天照大神の鎮座後、倭姫命が行ったという神堺の選定、忌詞、祓法を始め三節祭など祭祀の制定、斎王(いつきのみこ)の制度、神宮の整備などの倭姫命の業績が述べられている。また、倭姫命の薨去の際に天照大神よりの託宣として告げられる一節は、伊勢神道の規範を為すものとして知られている。文中、神道の自主性と独自性を主張し、儒教や道教などの教説を借りて説く神道教理も、また一定の評価を受けている。

さて、倭姫命巡幸の始まりの美和、弥和は、三輪である。三輪山に就いては前に稿を頒けて触れてきた。天照大神の伊勢への遷座の起点となるのがこの三輪山である。初期大和政権の成立に三輪山を抜きには語れない。崇神天皇から始まる三輪王朝にあっては、三輪山は最も重要な土地であった。

弥和を発った倭姫命は、「六十年癸未(みずのとひつじ)、大和國の宇多秋宮(うたのあきのみや)に遷り給ひ、四箇年の間を積(へ)て斎(いつ)き奉りたまふ(略)」。崇神天皇六十年、大和の国の宇多秋宮に遷られ、四年が経つ間、天照大神を斎き奉られた、という世記の記事である。儀式帳には宇太阿貴宮として表れる。宇多、宇太は書紀の記す菟田で、今は奈良県宇陀郡から宇陀市となった。

(七)宇多秋宮(世記。儀式帳・宇太阿貴宮)。その比定地と思える処は宇陀市大宇陀区にある。

①     阿紀神社 宇陀市大宇陀区迫間

②     剱主神社 宇陀市大宇陀区宮奥

③     剱主神社 宇陀市大宇陀区下宮奥

④     剱主神社 宇陀市大宇陀区半阪

の四社が挙げられる。

①阿紀神社は式内社だが、創建は不詳である。祭神は天照皇大神ほか大国主命の孫の秋姫命、天手力男命、邇々芸命、八意思兼命を祀る。縁起に拠れば、宇陀の荒野を開拓した稲作神・秋姫命の鎮座が起源と謂う。また、神武天皇が熊野の難所を越えてこの宇陀で天照大神を祀り、日神の威勢を背に大和に進軍し、賊軍を平定して武運を開き後に天照大神を祀ったとも謂う。木立の深い境内には古い能舞台が現存する。江戸時代初期より能楽が奉納され、中断する大正時代まで二百数十年間も続いた。平成にはいり薪能が再興された。現在は毎年六月中旬、“あきの蛍能”として明りを落とし、闇夜に蛍を放つという幻想的な演目の蛍能も演じられる。神社前の小さな本郷川には蛍の幼虫が放流される。その清流は南東に拡がる柿本人麻呂の歌で有名ながげろひの丘・万葉公園のホタル水路に繋がっている。此処で歌を詠んだ人麻呂は軽皇子の供で狩猟に来た。かげろひとは冬季の晴れた夜明け前の、うっすらと茜色の陽光のことを指す。

剱主神社三社は阿紀神社より南方二、三キロ離れた処に鎮座する。阿紀神社と同様に延喜式神名帳の「宇陀郡(うだのこほり)十七座」に一社のみ名が見える。②剱主神社は鬱蒼とした杉の巨木に囲まれた台地に鎮座する。神殿建立は江戸末期だが、かつては後方の山頂の白石群を神体として磐座信仰の祭祀を執り行ない、近世末頃まで古代の祭祀形態を残していたようだ。現在の社殿はその遥拝所の跡地で、白石明神とも称された。神社神名帳には祭神不詳と記すが、国学者・伴信友は『神名帳考証』で『新撰姓氏録』の大和國神別(やまとのくにのしんべつ)・天(てん)神(じん)の条にある「葛木忌寸(かづらきのいみき)。高御魂命(たかみむすびのみこと)の五世(いつつぎ)の孫(ひこ)、劔根命(つるぎねのみこと)の後(すゑ)なり」の、劔根命を祀るとしている。明治十四年調査の『大阪府地誌』では素盞鳴命を祭神とするが、それより天照大神がどの程度遡って祀られていたかは不明である。

③剱主神社は、江戸の頃まで神戸大神宮とも呼ばれていた。附近に神宮の神戸があり、それがそのまま地名となった。剱主大神を祀るが「式内社調査報告」では天照皇大神を奉祀するとある。明治初期の神社廃合の混乱時に大神宮の名称が顧みられず、当社が式内社の剱主神社と届出た結果の社名との説がある。

④剱主神社は、寛文・元禄期に貼られた棟札によって天照皇大神宮、天照大神宮と称したことが知られている。当時より天照大神を奉祀していたが、いつの頃か②剱主神社より勧請したものと見られている。他の祭神に建速須佐男命、経津主神、葦原醜男神を祀る。

他には江戸中期まで大将軍神社と呼ばれていた神楽岡神社が大宇陀区上新に鎮座する。天照皇大神を祀り、当初は比定地として挙げていたが、現地での調べが進むうちに論拠が薄弱であり比定地の対象外とした。

さて、やがて倭姫命は、秋宮と同じ宇陀域内の少し離れた処へ遷られる。世記には「宇多秋宮より幸行(みゆき)して、佐佐波多宮(ささはたのみや)に坐(ま)します」とある。この佐佐波多とは書紀に謂う菟田(宇陀)の筱幡であろう。儀式帳には宇太佐々波多宮と記されている。

(八)佐佐波多宮(世記。書紀・菟田の筱幡。儀式帳・宇太佐々波多宮)。比定地は三社である。

①     篠畑神社 宇陀市榛原区山辺三

②     御杖神社 宇陀郡御杖村神末

③     四社神社 宇陀郡御杖村菅野

(奈良 泰秀  H20年2月)