伊勢の神宮 (内宮)

日本書紀に拠れば、それまで宮中で奉斎されていた天照大神が皇女豊鍬入姫命に託され、倭笠縫邑に祀られたのが十代・崇神天皇の六年。この崇神六年は、紀元前九十一年という。

次に天照大神が紀の記事に現れるのは、十一代・垂仁天皇二十五年。天照大神は豊鍬入姫命から離されて垂仁天皇の皇女倭姫命に託され、鎮座する処を求めて巡幸の旅に出る。そして伊勢の国に辿りつき、天照大神は倭姫命に教えていわれる。

“是(こ)の神風(かむかぜ)の伊勢國は、常世(とこよ)之(の)浪(なみの)重浪(しきなみ)歸(よ)する國なり。傍國(かたくにの)可怜國(うましくに)なり。是(こ)の國に居(を)らむと欲(おも)ふ”とのたまふ。故(か)れ、大神の教(みをしへ)の随(まにま)に、其の祠(やしろ)を伊勢國に立てたまふ。因(よ)りて斎宮(いはひのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是(これ)を磯宮(いそのみや)と謂ふ。(略)(“この神の風の吹く伊勢の国は、常世の国から浪が幾重にも打ち寄せる国。中心ではないが大和に近い傍国(かたくに)の美しい国です。この国に居たいと想う”と仰る。そこで大神の教えのままに、その祠を伊勢の国に立てられた。そして斎王がこもる斎宮(いつきのみや)を五十鈴川のほとりに建てた。これを磯宮という。)

この垂仁天皇二十五年とは紀元前四年とされる。平成十七年三月に出版された伊勢の神宮の『神宮史年表』(神宮司廳編)にも、紀の記事と一年の違いはあるが、次のように記されている。

「(和暦・垂仁天皇二十六年)(西暦・紀元前四年)(天皇・崇神)、“この年、五十鈴の川上に皇大神宮(内宮)建つ”」〔紀注〕

とある。天照大神が崇神天皇の都のあった瑞籬宮(みづがきのみや)(現在の奈良県桜井市)を出て伊勢に遷祭されるまで、実に八十七年の歳月を要したことになる。

この神宮史年表の発刊にあたって北白川道久大宮司は、冒頭で次のように述べておられる。

「伊勢の神宮は、今からおよそ2000年前の第11代垂仁天皇の御世に、宇治の五十鈴川の川上に皇祖天照大御神が御鎮座せられてより、古儀を旨として祭祀が連綿と営まれてきました。(略)」と紀にある記述を根拠として、伊勢神宮の創祀二千年を謳われている。

しかし記紀の早期の天皇、とくに架空ともいわれる二代から九代までの欠史八代を含め、初代から二十一代・雄略天皇まで、あるいは二十五代・武烈天皇までの存在の信憑性と紀年法に対して数々の問題提起がされているのは周知の事実だ。そのような見方に配慮したわけではないだろうが、神宮史年表の垂仁天皇二十六年の〔紀注〕には以下のように記してある。

「(略)同紀(崇神紀・垂仁紀)の記事を尊重する研究として第一に掲ぐべきは『伊勢神宮の創祀と発展』(田中卓著作集4所収)であろう。田中博士は垂仁天皇紀25年条本文の所伝を歴史学的に信ずべき内容と考察した上で、垂仁天皇の御世を“三世紀後半より四世紀前半時代”と推定する。」と、神武紀元による年数の相違を容認するような注釈を沿えている。垂仁天皇在世が三世紀後半とすれば、神宮の“創祀二千年”は根底から崩れて成立しなくなってしまう。

時折、皇紀を記入した暦や新聞などを眼にする。ご存知のように皇紀とは初代神武天皇が即位した年を紀元としている。その根拠となるものは、日本書紀に記された即位の年の干支「辛酉(しんゆう)」年。干支年とは六十年を一周期とするが、この辛酉の年は世の革命や変革が起きる年とされた。さらに六十年周期が二十一度巡る千二百六十年目の「辛酉年」は、天命が改まり王朝交代の大変革の年となるとともいわれた。出典は、中国では社会不安を与えるとして焚書の憂き目にあった『緯書』の逸文「易緯」にある“讖緯説(しんいせつ)”なるもの。百済を経て五世紀にはわが国に伝えられたようだ。平安朝のころから辛酉の年が巡ってきた年は、政変や動乱を回避する目的で元号の改元が行われている。それが通例となり明治まで続いてきているが、明治の初期に、東洋史の分野を確立した歴史学者の那珂通世が、ある仮説を立てた。日本書紀の神武天皇紀元はこの讖緯説に基づき、摂政の厩戸皇子・聖徳太子が初めて斑鳩に宮都を築いた三十三代・推古天皇九年(六百一) の「辛酉年」に、この年を起点として千二百六十年遡る、というもの。それで神武天皇の即位紀元は西暦紀元前六百六十年となる。この紀年法は明治六年の元旦より太陽暦と同時に採用され、皇紀や神武暦と言われて終戦まで使用された。

厩戸皇子図 (東京・矢先稲荷神社天井図)

蛇足だが、我われが呼び親しんでいる聖徳太子という呼称は、現在の学校教育では教えないそうだ。聖徳太子には十以上の異名がある。死後百年以上も経ってからの尊称を止めて日本書紀に記されたの厩戸皇子、厩戸王と教えているというが、このように時代と共に歴史の観点も変わっていくようだ。

さて、この史上初の女帝となる推古天皇の九年は、王朝の交代や革命といったこともなく、斑鳩の宮城建設のほかにこれといった世情の動きはない。前年には新羅と交戦中の任那を援けるため朝鮮に出兵し、新羅を降服させ引き上げているが、それほど緊張の高まりもない。二年後の暮れに聖徳太子が冠位十二階を制定し、その翌年、憲法十七条を発布している。

なに故にこの推古九年の「辛酉年」が大変革の年として選定されたのか、理由が解らない。それと、千二百六十年遡った紀元前六百六十年といえば従来の捉えかたからすると縄文晩期。漁労や山林での狩猟採集をおこない、社会階級も整備されずに王権も確立していないその時代に、剣を振るい船団を率いて行動するとはとても思えない。

手許に千葉大学の名誉教授に退かれた内田正男氏の『日本書紀暦日原典』(雄山閣)がある。紀の記事で干支の初見は、神武天皇の条“是年(ことし)は太歳(おほとし)甲寅(きのえとら)なり。其の年の冬十月(みなづき)、丁巳朔(ひのとみのついたち)。辛酉(かのととりのひ)(五日)、天皇(すめらみこと)親(みづか)ら諸皇子(みこたち)舟(ふな)師(いくさ)を帥(ひき)ゐて、東を征(う)ちたまふ”である。この東征以来、紀の最後に現れる文武天皇元年の八月までは、千三百六十二年と八ヵ月の年月がある。この気の遠くなるような年月に登場する全天皇、年、干支、月、儀鳳暦の朔干支、グレゴリオ暦、中気、日本書紀の干支、元嘉暦の朔干支、中気が表として纏められている。

儀鳳暦とは太陰太陽暦の暦法で、唐の儀鳳年間(日本では天武天皇五年・六七六~天武八年・六七九)に伝えられた。元嘉暦もおなじく中国の太陰太陽暦の暦法だが、それ以前の六世紀に百済を通じて輸入された。当初はこの元嘉暦が使用されていたが、持統天皇六年(六九二)から後からはいってきた儀鳳暦と併用され、五年後の文武天皇元年(六九七)に元嘉暦は廃止されて儀鳳暦のみとなる。儀鳳暦は六十六年間使用されて大衍暦と変えられるが、七百二十年に成立した日本書紀には、千百年余を儀鳳暦が、残りは元嘉暦が利用された。紀は、この二つの暦法を活用して年月の操作をしたことは間違いない。

(奈良 泰秀  H19年4月)