年毛神社 (福岡県宗像郡)

私共の古神道講座で「霊学講座」を担当するのは、著名な語学系大学で教鞭を執る気鋭の助教授である。現在、霊学・神仙道などを学術的に捉えて取り組んでいる学者はごく少数だ。母校の國學院には神社神道の神職を養成する学部はあるが、霊学は埒外に置かれ、本格的に研究する教員など一人も居ない。また研究する雰囲気でもない。その彼は言う。“研究をまとめ、書いて発表することは出来るけど、「修法」や「行」の実践となるとまったく駄目ですよ”。「行」とは、精神と人格の向上と成長を目指しての身体的訓練を含めた実践的鍛錬だが、学者はまだそれでも良い。しかし人の心を導く宗教者となると話は別だ。

私の上級講座では、資料と一緒に『神を戴きて幸福への道』という冊子を配布している。著者は九州・福岡に近い田園地帯にある年毛神社という小社の宮司で、田舎神主を自称する“笑翁(わらいのおきな)”こと永島俊一師。今年九十歳とご高齢だが耄碌など無縁。記憶や頭の回転の早さは壮年のようだ。終戦直後に宮司就任以来、世俗に無欲恬淡として神明に仕えて来られた。氏子区域の葬儀を仏式から神葬祭に変えたことでさまざまな霊的体験もされている。師は心眼を開けば神のお姿が見えるひと。“死んだ者とな、二十四時間以内に話しが出来んようじゃ神主といえんぞ”などと言われる。

この永島師は窮地に陥ると馬上の立派な鎧武者が現れたそうだ。誰かを調べていくうちに源頼朝の墓前で一族三百余名を引き連れ共に切腹した先祖だと判った。その先祖が切腹したことで地縛霊となっていた。それを知り八十歳の時、七百四十五年振りに奉斎。地縛を解かれた武士は初めて名を名乗った。遠祖・藤原秀郷公に連なる上佐野出羽守景綱と…。冊子にはそのような体験談や地元に密着した活動、独自の霊魂観・神観が綴られている。

初めて永島師のお宅を訪ねたとき、家の直ぐそばに墓地とも見える奇妙に一画があった。あとで訊けば、“悪い神さんを捕まえて入れておく留置場みたいなもんだ”。とのこと。神霊界での悪神はどこまでいっても悪神。改心などしない。師は神前の真剣の長刀を抜いてギラッと光らせ、“この経津主神(ふつぬしのかみ)さんの神力(おちから)でな、悪い神を追い詰めるんじゃ”。師は捕まえる迄で、裁きは幽世大神に委ねるそうだ。そんな永島師が私の顔を見て、“あんたも力ずくで悪い神さんや悪霊を相当やっつけているな”。と言われた。どこを気に入られたのか、自分の子供にも渡してないよと言いながら、霊的な神事を手書きで記した行事次第を幾通か頂戴した。指摘された永島師の足許にも及ばないが、以前、私も何度か亡霊を相手にした経験がある。そのうちの一件に関わったことで、微かにだが未だに身体に後遺症を残している。

山梨県と長野県境に、弘法大師が修行した伝承もある瑞牆山がある。この山には無数の磐境が点在している。磐境の神気を探る修行と称して月に一度登っていたが、相模原在住の登山の仲間に乞われて家を訪ねた。そこで待っていたのが仲間のお嬢さんの友人で三十前の女性。顔が青白く血の気が失せている。額に手をかざすと生気がない。訊くと彼女は小さい頃からいろいろな亡霊の姿が見えるとか。それがいつの間にか夜中に家に現れるのが見え、帰るに帰れずに友人宅を転々と泊まり歩いているという。現れるのは鎧兜を着けた武士三人と袿(うちぎ)を羽織った女性一人の四人。ほかに四人に従う何十人かの雑兵の声が聞こえる。家は淵野辺の近くで一人住まい。

瑞牆山の磐境(いわさか)

居合わせた数人で彼女の家を行くと、家の周囲の一角は異様な空気。家の中には飼われている中型犬が一匹。デパート勤めの彼女は朝夕に犬に餌を与えに帰って来るが、よほどのことがないと夜間は家に居ないと云う。霊的な動きの方位は南西の角と生前の溝口先生には聞いていたが、確かにそのようだ。それと家の中で動物を飼っていると亡霊が寄ってこない場合もあるが、これはかなり強烈そうだ。

詳しい事情を聞くと、彼女は一人娘で、此処へ引っ越して来るまで両親と結婚した相手と四人で蒲田に住んでいた。家が手狭なので、建築後間もなく手放された中古の家を購入してこの地に移り住んだ。だが、移転して直ぐ父親は事故で死亡。母親は言動がおかしくなり神経が異常とのことで精神病院に入院。結婚相手はある日突然失踪して行方不明。結局残されたのは彼女と犬一匹―。確かに何かありそうだ。家にある全てのコップ七十数個を持って来させ、これに水を浸して気を入れ、毎日南西の角に一個ないし三個を供えるよう指示する。これが無くなるまでに神事を行うと約束したが、いつもより手こずる気配。

鎧兜の武士たちは誰か。瑞牆山の仲間が調べたことや、相模原市の教育委員会にいる空手部の同期に聞いたことを整理すると、土地の豪族・淵邊義博一族に関わりがある。淵邊は足利尊氏の弟・直義の家臣。一度滅んだ北条方の巻き返しで鎌倉が攻め込まれるが、直義が逃げる際にその命を受け、後醍醐天皇の皇子で、政争で幽閉中の護良親王を惨殺したとされる人物。淵邊もその年の駿河国手越河原の合戦で討死している。亡霊たちは信濃から挙兵して鎌倉に向かう北条方に討たれた一族なのか、それとも逆に淵邊に討たれた北条方なのか。

このような霊的現象の取材をしている元新聞記者でいまはライターの友人に話しをすると、独りでやるのは無理だ、耳鼻咽喉をやられる、と言う。そして聞かされたのが以前中京の都市であった出来事。一年も持たず直ぐ潰れて代替わりするガソリンスタンドあった。土地に問題があると思われ、除霊が専門の教団に観て貰うと甲冑姿の武士二人の亡霊がいる。関ヶ原の戦いで西軍に加担した薩摩藩島津義弘は、敗色濃くなり敵方の徳川陣の中央を突破し、血路を開いて逃亡するのは有名な話しだが、二人は島津隊の侍大将。義弘を逃がすためこの地に留まり続けた。握り飯なども供え数人がかりで説得を繰り返したという。

今更応援を頼むわけにもいかず、独りでことにあたった。深夜十二時からの神事に霊能者ほか見学者が七、八名。私の神事の行事作法には、先師から伝えられた「成仏唱」ほかの経文を使う。

一時間を超える神事を終えるとギャラリーから、成仏唱を挙げ終えると一点に霧が吸い込まれるように晴れていった、との声。だが翌日の夕方、原因不明の高熱が出た。それが一週間続き、右の耳が聞こえなくなる。それが現在も僅かだが難聴気味で残っている。亡霊のほうは一度で姿を見せなくなった。彼女はその後平凡な結婚をして二児の母親になっている。

後遺症を残すなど、百戦錬磨の永島師に較べれば、私などまだまだヒヨッコだと実感している。

(奈良 泰秀  H18年5月)