「母 勝の書簡」(国重文)

 さて、本居宣長は、宝暦二年(一七五二)三月に京都に上るが、五年半余の遊学を終え、宝暦七年十月の始めに郷里の松坂に帰って来る。時に宣長二十八歳。その帰郷直前の九月十九日、師と仰いだ堀景山が七十歳で没している。景山の許には上京した宣長が最初に入門し、二年七ヵ月にわたって寄宿している。代々、芸州浅野藩の儒学者の地位を継いだ景山の禄高は二百石。宣長がのちに紀州徳川家に召抱えられるときに松坂での居住を願い出たのも、この京都在住を許されていた景山の先例に倣ったとされる。この景山は当時、封建制を支える思想として盛んだった“儒学”から、“国学”への橋渡しの位置に天皇の存在があると論じたり、民衆への天皇の権威の浸透には、伊勢信仰との関わりがあると述べている。日本の古典にも造詣が深く、宣長が購入したものとは別に『日本書紀』を伝与し、中断していた校合を託している。校合を終えたことでなのか、帰郷する前の年に店頭で『先代舊事本紀』と『古事記』を購入している。この両書は大山為起という神主の蔵本。彼の死後に廻り回って宣長に渡ったもの。

 宣長は少年時代にこれらの古典の存在を当然知っていた。十六歳の春に起筆し、書籍の題名ばかりを集めた『経籍』のなかに、「本朝三部ノ本書」として「舊事紀クジキ〈ワ雑十巻〉、古事記コジキ〈ワ雑三巻〉、日本紀〈ワ雑三十巻〉」と記載している。この経籍には、その後も知り得た書名も書き連ね、京都遊学から松坂に帰る頃まで十二年に亘って書き継がれた。

 宣長は商家に生まれながら“商ひのすじにはうとくて、ただ書を読むことをのみ”に専念した。八歳で手習いを始め、十三歳の頃から『日記』を起筆。十四歳で貝原益軒の書「万宝鄙名事記」から天気に関する俚諺を抜書きした『新板天気見集』、『円光大師伝』などを書写している。十五歳となると『神器伝授図』と、『職原抄支流』上下二巻などを書写する。

 この『神器伝授図』とは、中国の三皇五帝から清に至るまでの王朝と皇帝の系図を図示したもの。皇帝の家系の交代では、断絶を示す赤線を用いている。一方の『職原抄支流』は、北畠親房が著した法制史や朝廷の制度などの故実書『職原抄』の注釈書。どちらも長さ十メートルに及ぶ紙面に細字でびっしり書かれている。前回触れたが、この歳に『赤穂義士伝』を筆記。巻頭には、“樹敬寺にて実道和尚説法”の聞き書きをしたとあり、聞き漏らしや忘れた個所があるかもしれないと断りながら、その記憶力の良さを発揮している。

 この仇討ちには興味があったのか、遊学の在京時、宣長より八歳年上で上京当初より親しく行動を共にしていた景山の次男・蘭澤と連れ立ち、四十七士の遺留物や泉岳寺の墓の模造などを展示していた清閑寺に行き、観覧料を払いそれらを見物している。先の『経籍』には当然この義士伝の関連書も載せている。

現在の北野天満宮

 そして、十六歳となった二月に、初めて京都見物に出立。北野天満宮に参詣しているが、思い描いていた京へ、更に憧憬を深めたと思われる。その後、宣長は独自の京都を見出す。

 十七歳では京都に関する古今のあらゆる文献を編集して、『都考抜書』第一冊を起筆する。松坂に在って、憧れの京都の情報と地図を検証しながら上京する前年まで、これも五年余に亘り第六冊までが書き継がれている。

 前後するが、十六歳の宣長が京都見物から帰って間もなく、天皇家・徳川家の系図『本朝帝王御尊系並将軍家御系』を書写している。宣長の書き癖か、徳川を得川と書き、当将軍家系得川、尾張家系得川などと表記している。

 同じ頃、郷里松坂の歴史や旧蹟、神社仏閣を記した『松坂勝覧』を著す。これは、それまでのような他の書物の書写や抜書きでないことで、宣長の初めての著述とされる。その少し前には、それまで眼にした日本地図に飽き足らないのか、自分なりの工夫を加えた畳一畳を越える大きさの地図・『大日本天下四海画図』の作成に着手している。これも描き終えるのに、実に五年半を費やしている。

 このように宣長は少年の頃から系図と地図が好きだった。系図には時間の流れを、地図には空間の拡がりを見て、そこへ物語りや和歌や文献という肉付けをしていったという言われ方もされるが、正しい見方だ。系図や地図のなかに、少年時代の宣長は自分なりの世界観を構築していったのだ。

 さきの、僅か十五歳で書写した『神器伝授図』の巻頭部分を、さらに後には『中華歴代帝王国統相承之図』として清書している。長い歴史を持ちながら、激しい抗争で王朝の断絶と勃興を繰り返す中国に対し、連綿と皇統を保つ大和民族の基層に在る精神の奥深さと優しさを感じながら、宣長は成長していったに違いない。年少の頃から乱読とも思える多くの書物に親しみ、旺盛な好奇心を満たし、気丈な母に支えられながら勉学のなかで師と友を得、和歌や古典研究を通し、後進の国学の礎ともなる“宣長ワールド”が築かれた。

 晩年近く、“がくもんして道をしらむとならば、まづ漢意(からごころ)をきよくのぞきさるべし”(『玉勝間』)。“道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意、儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂をかたくする事を、要とすべし”(『うひ山ふみ』)。と、外来でのものの捉え方を排し、伝統的意識としての日本の心の再確認を唱えた。

 そして十八歳では『和歌の浦』を起筆。和歌に関しての抜書きを纏めもの。この頃より和歌に関心を持ち始めたとされる。これも五冊、三十二歳頃まで書き継がれた。また同年、『端原氏物語系図』を著す。端原氏の系図も元号も架空のもの。翌年に書いた『端原氏城下絵図』と対を成すが、こちらも架空の城下町の地図。宣長が創作を意図したものか、系図と地図への関心から[物語]ではなく宣長の[世界]を創出しようとしたものと意見は二分するが、いずれにしろ少年期の系図・地図好きだった宣長の集大成ともいえるものだろう。

 京都遊学から帰国した宣長は医者として開業する。当時の記録によれば、人口九千人ほどの松坂に、三十数名の医者が居たようだ。

 そして、刊行されて間もない賀茂真淵の『冠辞考』を読み、大きな影響を受ける。これにより六年後、生涯の師となる真淵との一夜の出会いとなり、三十五年をかけた畢生の事業・『古事記傳』成立に繋がっていく。

(奈良 泰秀  H18年1月)