平田 篤胤

皇大神宮の祠官・荒木田氏経が編纂したといわれる『皇天記』には、神祇伯白川家や神宮に伝わる祓詞が記載されている。本居宣長の没後にその門人となった平田篤胤は、それらの祝詞を始め、他の神社や学派・諸神道に伝えられる祝詞を研究し、大祓詞の天津祝詞として編修した祝詞を世に出す。中世以来伝えられている「美曾岐祓」四篇を基本として一篇にしたとも云われる。

現在、神社界では「禊祓詞」といっているが、神道系・諸教系の新宗教の教団では「天津祝詞」として独立させ奉唱している例が多い。神道に多少でも興味のある方なら解っておられると思うが、その天津祝詞とは以下のようなもの。

 

 

高天原に神留(かむづまり)坐(ま)す

神魯岐神魯美(かむろぎかむろみ)の命(みこと)以(もち)て

皇御租神伊邪那岐命(すめみおやかむいざなぎのみこと)

筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)に

御禊(みそぎ)祓(はら)ひ給(たま)ふ時に生坐(なりませ)る祓戸(はらへど)の大神等(おほかみたち)

諸々(もろもろ)の枉事(まがこと)罪穢(つみけがれ)を祓ひ賜(たま)え

清(きよ)め賜えと申す事の由(よし)を

天津神(あまつかみ)国津神(くにつかみ)八百万(やおよろず)の神等(かみたち)と共に

天(あめ)の斑駒(ふちこま)の耳(みみ)振り立てて聞(きこし)食(め)せと

恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まを)す

以上のようなものだが、これにはそれぞれの教団で解釈での捉え方があり、読み方に若干の違いがあるようだ。冒頭の高天原を“たかまがはら”または“たかあまはら”、阿波岐原を“あわぎはら”か“あはぎはら”、“生坐る”を“あれませる”または“なりませる”と言うような読み上げ方がある。

このように没後の門人とはいえ、篤胤は師の宣長が、大祓詞そのものが天津祝詞の太祝詞事とした説とは異説となる天津祝詞を現すが、『大祓太詔刀考(おほはらひふとのりとこう)』で、

「篤胤をぢなき身なれども、(略)霊幸(たまちは)ふ神の御心と其の太祝詞なるべきを得て…(略)姑(しば)らく秘蔵(ひめを)きて、伝ふべき人を待ちて伝へんとす ― 」ということで、本来なら隠し置かれていたかも知れないものが、陽の目を見たのが天津祝詞だと云うのである。

荷田 春満

近世に入り、それまでの仏教や儒教と習合した神道からそれらを排し、純粋な神道の復活を目指した研究が始まる。いわゆる国学で、古神道、復古神道、或いは純神道と言われるジャンルを打ち立て、その精神性を神典の記紀やその他の古典に拠った。この国学を推進した中心に国学四大人、荷田春満、賀茂真淵宣長、篤胤が居るが、特に宣長と篤胤が残した業績は高く評価されている。少し後の明治維新にこの国学の思想が結びつく。維新が理想とした、神代から続く神武天皇以来の祭政一致の世を創る実践運動に、多大な影響を与えた。篤胤学派の政治的影響は特に顕著だ。

横道に逸れたついでだが、この篤胤は「神代文字」でも豹変している。初め宣長と同様その存在を否定していたが、一転して『古史徴開題記』でその存在を認め、対馬・阿比留家に伝わるハングル文字に類似した書体を真正な神代文字と結論づけ、『神字日文傳』を著している。この宣長への反駁は、単なる学究の結果なのか、或いはこれらとは別に没頭する異界の霊的研究に入るような、特別なエネルギーが働いたのかは知る由もないが ― 。

この神代文字は偽造であり、神代文字そのものを否定する宣長の学説を継いだのが、篤胤と同じく宣長没後に門弟となった国学者・伴信友である。篤胤より三歳年長で、後年篤胤と不仲になるが、国学者たちの祝詞研究を大成した『祝詞講義』を著している。実証的研究に徹したといわれる信友は『中臣祓詞要解』で、“天津祝詞の太祝詞事”とは別にあったが、現在は伝わっていない、という説を主張した。確かに大祓えの儀式は、明治になって再興するまで四百年に亘って途絶えている。

この稿の始めに、高校時代の二年間、授業でその謦咳に接しその後も教えを受け、古稀のお祝いにも出席させて頂いた神宮の社家出身の御巫(みかんなぎ)清勇先生に触れたが、御巫先生はこの信友の説を踏襲しておられる。ご自身の著書『延喜式祝詞教本』のなかで、“天津祝詞乃太祝詞事”に就いて、「記に天児屋命布(ふと)刀詔戸(のりと)、言祷(ことほぎ)白而(まをす)とあり、高天原で天児屋命によって宣られたと信ぜられ、その所伝と伝承する行事とをもととして、中臣の氏人によって述作されたもので、天津菅曽を云々という呪術に際して宣られた呪言的意義の濃厚なもので、特に大中臣によって宣られたが、今は伝わらない。」と述べておられる。

更に御巫先生は、元来、大祓詞は中臣氏よって宣読されていたと言われて来たことに就いても、独自の見解を示されている。「中臣は詞の間に挿まれる筈の天津祝詞の太祝詞を奏し、(大祓)詞は卜部の宣するものと思われる。」「神祇令によれば祓詞を読む者は中臣であるが、この祓詞とは天津祝詞の太祝詞と見ることも無理ではない。」そして、「“卜部為(はらへ)解除(をなせ)”とある解除(はらへ)の中に大祓詞を読むことが含められていると考えて、一向に差支えないと思われる。」「そうにみると天津祝詞の太祝詞事を宣(の)れというのは卜部氏で、それに応じてこれを宣るのは大中臣である。しかもその天津祝詞の太祝詞は伝わらないのである。」

賀茂 真淵

繰り返すが、つまり大祓えは中臣が中心となり卜部を率いて儀式を掌ったが、この太祝詞を宣することが最も重要な事で、大祓詞そのものは卜部が奏読し、“天津祝詞の太祝詞事を宣れ”との読み上げに応え、中臣が太祝詞を奉読したと云う。最も神聖な太祝詞を奉読したことで中臣祓詞・中臣祭文などと称せられたと謂われるのだ。畏敬すべき御巫先生のお説だが、私としてはただ手を拱くしかない。また御巫先生は『令義解』に依れば、延喜式の「鎮火祭」「道饗祭」は卜部氏の管掌で、その祝詞も卜部氏が奏読したと言っておられる。それに就いてはまったく同感である。

そして篤胤帰幽後、篤胤の墓前で弟子の誓いをしたという鈴木重胤は、後世に文献として残る優れた書物を何冊か著しているが、重胤は「吐普加身依身多女(とほかみみえみため)・寒言神尊利根陀見(かんごんしんそんりこんだけん)・祓(はら)ひ玉(たま)ひ清(きよ)め給(たま)ふ」を“三種の祓詞”と云い、これが天津祝詞の太祝詞だとしている。

今回もいろいろとご意見も頂いた。あれこれと長くなってしまったが、この稿は次回まで続けたい。

(奈良 泰秀  H17年4月)