菖 蒲 の 花

 五月は眼にしみる新緑が野山を蔽(おお)い尽くし、爽やかな心地よい風が初夏の風情を運んで来てくれます。野外の活動やハイキングなどの行楽には絶好の時期です。皐月(さつき)は、田に苗を植える早苗月(さなえづき)、または小苗月(さなえづき)の略といわれます。さつきのサは稲の精霊を意味することから皐月は神に稲を捧げる月、という説もあります。ほかに、橘の花が咲くので橘月、菖蒲月(あやめづき)、雨月、田草月(たぐさづき)、五月雨月(さみだれづき)、五月雨(さみだれ)で夜空に月を見ることが稀なので月見(つきみ)ず月(つき)、などとも言います。旧暦の皐月はいまの六月ころに相当します。この時期の月の出ない闇夜を五月闇(さつきやみ)と言いますが、月の運行を基にした旧暦での生活だった当時の人たちが、月に深い関心を持っていたことが偲ばれます。

 五月には五節供の一つの、端午の節供があります。端午の端は“初め”の意味で、月の端(はじ)めの午の日のことを言い、五月とは限りませんでした。中国では二千年以上も前から月と日を重ねる重日思想があり、旧暦で牛の月は五月で、午(ご)が五に通じることから五月最初の五日を固定させて節日としたもの。三月の上巳・桃の節供もそうです。中国では現在でも旧暦の行事が一般的ですが、日本では新暦に置き換えられました。

 しかし中国で五月は古来、“五月、俗に悪月(あくげつ)と称し、禁忌(きんき)多し”とされていました。旧暦の五月は、歴史的にも天災や戦乱などの凶事が多く重なったようで、忌み慎(つつし)む月だったのです。いまでこそ端午の節供は、男子の健やかな成長を願っての祝日ですが、中国では昔から五月五日は悪月の悪日とされたのです。この日に産まれた子供は、成長すると父母を害し親をも殺すという俗信があり、子供を棄ててしまう風習もあったようです。そのため五月五日には邪気を祓い、魔を避け、無病息災を願うさまざまな行事がありました。六世紀の中国の年中行事や風俗習慣を記した『荊楚(けいそ)歳時記』には、“五月五日は蘭(らん)湯に浴する日。人々は百草を踏んで歌い踊り、蓬(よもぎ)で作った人形を門戸の上に架けて毒気を祓い、菖蒲で以って根を細かく刻んで入れた酒を飲む。この日に舟の競漕をし、薬草を摘む”という記述があります。端午の日には薬湯に入り、香気が邪を祓う菖蒲や蓬で作った人形や虎の形を門や軒下に飾り、菖蒲酒を飲み、競漕をし、野外で薬草を摘む習慣があったのです。

 農耕主体の日本もこの時期には降雨や出水があり、ものが黴びたり傷みやすく体調も崩し勝ちな悪月です。もっと古い時代では田植え前に、若い女性が菖蒲や蓬で屋根を葺いた小屋で田の神を迎えるため、五月五日は身を潔め“さつき忌み”と言う物忌みをしました。これは中国の端午の節供と、若い女性が田植え前に農耕神へ豊穣を祈る信仰が習合したものです。つまり端午の節供は、日本では田の神を迎える女性のための節供だったのです。

鯉のぼり (フリー画像素材EyesPic)

 そして中国の習慣行事が伝えられると、宮中では菖蒲で諸殿舎を葺(ふ)き、菖蒲を酒や沐浴の湯に入れ、公式行事の宴会である端午の節会(せちえ)に、天皇の命令で臣下は菖蒲蔓(かずら)を冠にかけて参列するようにもなります。競漕は、薬となる鹿の角狩りから流鏑馬の源流となる騎射(うまゆみ)・走馬へと変容していきます。この宮中行事は次第に公家から武家社会にも拡がり、菖蒲は尚武に通じることもあり男子の成長を祝う節供となります。宮中行事が衰えた室町時代から戦国時代には、武家の標識である家紋や武者絵を描いた幟(のぼり)が外に立てられ、家のなかには具足の鎧(よろい)や兜(かぶと)、弓矢、槍などが飾られるようになります。江戸時代には庶民にも拡がり、町家でも、滝を登り龍ともなる鯉に出世の願いを託して鯉のぼりが立てられます。また吹流しの五色は邪を祓い魔を避ける色とされます。

 それと端午の節供に粽(ちまき)は欠かせません。粽は端午の節供とは無関係でしたが、端午の習俗より二三百年遅れて伝来します。これは楚国の王族で有名な詩人の屈原(くつげんBC343~BC278)の故事によります。政争で失脚した屈原は、五月五日に湖南省の汨羅(べきら)江に身を投じます。人々は慰霊のため命日に竹筒に餅米を入れて水中に投げますが、後には水中の龍に食べられないように栴檀(せんだん)の葉に包み、五色のいろ糸で結んで水中に投げ入れました。それが端午の習俗と粽が結びつく原点です。真菰(まこも)の粽をお守りとして配布する大阪堺市の方違神社や、栃木県の太平山神社、京都・八大神社、群馬県・榛名神社など幾つかの神社で“粽祭”を行なっています。

 また、柏餅を食べる習慣は日本独自のもの。柏は古い葉は枯れても新芽が出るまで落ちないところから、家系が絶えずに繁栄する縁起ものとされ定着しました。

 荊楚歳時記にある競漕は、舟を出して屈原を救おうとした故事から、中国では五月五日の命日にはいまも竜舟競漕が盛んに行なわれております。湖や池でボートを浮かべ、五月の爽やかさを堪能したいものです。

(奈良 泰秀 2009年5月)