延喜式(九条家本)

 このコラムについてのご意見・感想をいただくことが多くなった。

 今回の“太祝詞事”については、「古代のロマンが秘められている。」などと講座で語ることがあるが、特にこの度は、貴重なご意見を幾つか頂戴した。毎回このコラムをお読みになっておられるという神道界の大御所・山蔭神道の山蔭基央先生からも、お励ましと過分なお褒めのご丁重なお手紙を頂き、浅学愚才の身、唯々、恐縮赤面の極みを味わっている次第…。

 山蔭先生はお手紙のなかで「混同されている大祓詞」論争が、戦前戦後を通じてなされていることをご指摘されている。山蔭神道家にも書かれた時期は不明だが伝えられる大祓詞が存在し、ご希望ならお送りする、といった有り難いお申し出も頂いた。この大祓詞の出処をたどれば、吉田神道家の分家で、神祇大副・正二位 萩原員幹の嫡男員衡から伝えられるもの。そして、中納言・藤原山蔭卿、吉田神社の創建を由緒として「山蔭神道」を称し、幕末の神道家として活躍。それが光格天皇の庶子、従三位・左中将中山忠伊に伝えられ、現在の山蔭先生の許に残されたとのこと。このようなかたちで現存する大祓詞に太祝詞が秘められていたかどうかは不明だが、山蔭神道関係の文書に就いてはじっくり勉強させて頂きたいと思っている。

 余談になるが、山蔭先生はお手紙のなかで、明治以降の内務省神道はキリスト教への模擬であり、このため奇妙な神道となり、結果、「みたま」を知らない神職の群れが出来た、と嘆いておられる。常日ごろ、かたちだけの祭事を行い、心を失っているサラリーマン化した神職を糾弾している私としては、まさに我が意を得た思い。このシリーズで「みたま」を論じるようご助言を頂いたが、いずれこれもまた、稿を改めたい。

 さて、今後も関心を呼ぶであろう“天津祝詞の太祝詞事”の存在の有無を言われてきた大祓詞、それを奉読して来た“大祓え”を含め、これ迄のおさらいをしながらすすめたい。

 平安初期の律令体制下に成った法制書『延喜式』には、祝詞の古典資料ともなる二十七篇の祝詞が載せられている。これらの祝詞は公的なことを中心としており、いずれも天皇の祭祀との関わりがある。

 この二十七篇の祝詞の中には、当時の幾つかの有力部族が掌った祭事の祝詞を見ることができる。天皇と人民(おおみたから)の間にあって、天皇の言葉を人民に中を取り持って伝える職掌から氏名を称した中臣氏系の祝詞が“春日祭”と“六月晦大祓”、卜部氏系の“鎮火祭”“道饗祭”、忌部氏の“大殿祭”“御門祭”などだが、このほか、出雲系や渡来系の祝詞もある。他に伊勢大神宮の祭祀に関わる“六月月次祭”“神嘗祭”などがあるが、天津祝詞の太祝詞と云う表現があるのが、前にもいったように二十七篇のうちの五篇である。

 それは“六月・十二月晦大祓”“鎮火祭”“道饗祭”“六月・十二月月次祭”“神嘗祭”の五篇。そのうち“六月晦大祓”を除き他の四篇は、祝詞全体が天津祝詞の太祝詞であることは議論の余地が無いとされる。残るは“六月・十二月晦大祓”だが、太祝詞を理解するためには、まず、延喜式に載せられている大祓詞と、一般に流布した“中臣祓詞”“中臣祭文”と云われてきた大祓詞とはかたちの違うものであることと、それらの成立を知らなければならない。

 延喜式の大祓詞は、諸王百官諸人に天皇のお言葉を宣(の)り聞かせる宣命体であり、“中臣祓詞”“中臣祭文”は、延喜式にあるような天皇のお言葉を宣(の)り聞かせる冒頭と末尾部分を除き、神に直接申し上げる奏上体となっているものである。

 延長五年(九二七)に奉勅大成した延喜式に記載されている大祓詞がいつ頃作られ、読まれるようになったのかは不明だが、前々回述べたように、『日本書紀』(七二〇年) に記されている天兒屋命が奏した解除(はらへ)の太諄辭(ふとのりと)が、大祓詞に相当すると言われている。このように大祓詞の原型は、延喜式成立の遥か昔の神代の時代に遡る。

 また“大祓え”は同じく『紀』の天武天皇五年(六七六)、八月十六日の記事「四方(よも)に大解除(おおはらへ)為(せ)む」に見える。ほかにも天武十年七月三十日、文武天皇二年(六九八)十一月七日、大宝二年(七〇二)十二月三十日、慶雲四年(七〇七)二月六日など、この儀式は、大嘗祭、天神地祇の祭祀、疫病、飢饉、天皇の病気などを理由に、延喜式を二百五十年も遡った頃には既に執行されていた。

 このようにランダムに行なわれて来た大祓えの儀式が、六月、十二月に決めて行なわれるようになったのは、古代日本の国家制度の規定を記した『大宝律令』(七〇一)あたりからとされる。勿論その後も、この大祓えは様々な理由で臨時にも執り行われて来ている。

 そして中臣祓詞・中臣祭文だが、中臣氏が奉読したことで中臣祓とも言われている。その起源は、これもまた不明だ。一説には文武天皇期に作られたというが不確かで、文献に顕れるのは、齋部廣成が、同じ祭祀氏族の中臣氏に較べて地位が低下したことを慷慨している『古語拾遺』(八〇七)に「此の天罪は、今の中臣祓詞なり」の記述がある。また、永久四年(一一一六)に三善為康が編んだ平安中・後期の詩文や古文書を集めた『朝野群載』に、中臣祭文の文字が見える。

 神社本庁から出ている『大祓詞の解釈と信仰』(岡田米夫著)には、六月と十二月の祓えを大祓式と言い、その時読む言葉を「大祓詞」といっており、これに対し昔から平常読む大祓詞は、これを「中臣祓詞」といって区別している、といった記述がある。また、延喜式の大祓詞は六月、十二月に読むことになっているが、中臣祭文には、この時期を限定する言葉がない、とも記している。

 だがこれは誤解を生む。何故なら、確かに延喜式大祓詞の末尾部分に“今年の六月晦日の夕陽が傾きかける時刻に行なわれる大祓えに…”といった日時を決めた表現が記されているが、この大祓えは六月、十二月のほかに、前にもいったように臨時にも行われて来ているのだ。おさらいが長くなったが、あとは次回にしたい。

(奈良 泰秀  H17年3月)