本居宣長「六十一歳自画自賛像」

 延喜式(九二七年)には大祓えの儀式は六月・十二月の晦日に朱雀門前にて行ない、「臨時大祓亦同(臨時の大祓えまた同じくせよ)」との記述がある。時期を六月十二月と定めたのは大宝律令(七〇一)あたりとされるが、延喜式成立直前に編纂された国史の公式文書『日本三代実録(九〇一)』元慶六年四月二十二日の記事に「臨時大祓、建礼門前に於て此を行う」とあるように、朱雀門だけではなく、その後の正暦五年(九九四)四月十日・南殿、寬弘六年(一〇〇九)四月十五日・織部司南門、天永二年(一一一一)二月七日・高陽院、という記録もあり、建礼門を始め会昌門前、紫宸殿大庭、南殿前庭等の場所で臨時大祓えの儀式が挙行されていた事が判る。つまり規定されたこととは別に、現実には延喜式成立の前も後も、決められた場所以外での臨時の大祓えが、大嘗祭ほか様々な理由で執り行われていた。規定と実態の乖離は、或いは記述に洩れがあった事を示すことかも知れない。このことは後の平田篤胤の“天津祝詞の太祝詞事”説とも関わってくる。

 もとより延喜式に載せられている大祓詞も中臣祓と謂われる中臣祓詞・祭文もどちらも共に大祓詞と称されている。式のそれが本家なら中臣のはいわば分家。どちらも出自は不明。当時の国家祭祀としての大祓えの儀式は応仁の乱(一四六七)で途絶するが、当然天皇から臣下万民に宣(の)り下す形式の式の大祓詞は読まれなくなる。大祓えの儀式は芽輪くぐりなどの習俗を伴った夏越の祓え・夏祭りなどと変化して民間に残るが、一方の中臣祓も広く一般に流布し、その後種々の変形を生じさせながらも伝えられて来た。これは奏上体であったが故にであろうと私は考える。

 そして明治政府は四百年の空白を埋めて官製の大祓えの儀式を復興させる。この際読み上げる大祓詞を充分研究せず式のものと中臣祓とを混同させたことが、山蔭基央先生が指摘されるように大祓詞を混乱させる元をつくったと言わざるを得ない。官僚主導で発表された大祓詞はその後も若干の改竄を見ながら現在、一宗教法人の神社本庁形式として残り、中臣祓も一部を変化させる形に多様化しながらも現在に伝えられて来ている。勿論、官僚のそれであっても、大祓詞そのものは太古の精神をいまに脈々と息づかせている。

 では、延喜式に記された恒例・臨時を問わず大祓えの儀式に読まれた大祓詞に、“天津祝詞の太祝詞事”は存在したのか。前々回の、①「大祓の詞の一部、もしくは全部を指す説」の補足と、②「神代以来伝えてきた祝詞があるという説」とに戻りたい。

 この大祓詞についての研究や注釈が数多く世に出されているように伝えられているが、実際のところ最も盛んに取り上げられるようになったのは、一部の神道関係は別にして近世に入り国学復興の気運が満ちて来てからだ。

 本居宣長は賀茂真淵の勧めで古事記研究に三十四年をかけて大著『古事記傳』を完成させ、他にも多くの著書があるが、『大祓詞後釋』で天津祝詞の太祝詞事とは、前々回述べた①の「大祓の詞の全部を指す」という説を掲げている。また賀茂真淵も最晩年に著した延喜式祝詞の注釈書『祝詞考』で同様の意見を披露している。大学在学時代、神道神学の小野祖教博士に教えを受けたが、小野先生は式の現存する祝詞四種の天津祝詞を対比させ、詞型の分析を行ないこれに主観を加え、式の大祓詞に秘詞・秘咒の類いは無かったとし、宣長・真淵説を支持されている。しかし、中臣祓詞については、別に伝えられた中臣氏家伝の秘咒があったかも知れないとも云われている。(『神道の基礎知識と基礎問題』『古典の新研究』第三集)また、神宮皇學館の青木紀元先生は祝詞学の大家だが『祝詞全評釈』で、“天津祝詞の太祝詞”として、何か特別に神秘的な詞があったと推測して、仏教の呪文や作為された文句をもってそれにあたることが早くから行われたが、これを裏付ける証拠はなく、取るに足らぬことだ、としている。更に、「“太祝詞事を宣れ”と読んだ後に一呼吸置いて、それらの特別の詞を唱えたりするのは、この祝詞の文脈を全く無視したもので、笑止という外はない」とまで云っておられる。

 だが、②の「神代以来伝えてきた祝詞があるという説」を支持された先人もまた数多い。

 平田篤胤は宣長没後にその門人となったが、この篤胤の思想は明治の国家神道形成に影響を与え、その基盤となったと云っても過言ではない。その篤胤は未完の名著といわれる『古史傳』で「皇祖大神が御自ら口授し給ふた天津祝詞之太祝詞事と云ふ尊秘な詞言が在りしが、此の詞言は極めて貴重な詞言なる為に、延喜式にはわざと載せざりしものにして、恐らくは中臣家には之を相伝えたものならむ」と記している。皇祖天神が御自ら口伝えにされた天津祝詞の太祝詞事は極めて尊秘な詞であるため延喜式には載せずに、恐らく中臣家にのみ相伝されたものだろうと云うのだ。そして『天津祝詞考』(文化十二年・一八一五)で、大祓えとは祓いが中心であり、即ち黄泉の国から戻った伊邪那岐命が、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓いをされたときに発せられた言葉が禊祓詞であり、この禊祓詞こそが天津祝詞の太祝詞であると規定した。そこに到るまで篤胤は、白川・伊勢・吉田・垂加神道を始め、春日・香取といった神社に伝わる幾種類のものを研究し、そしてこれを集成している。岡田米夫先生は、『大祓詞の解釈と信仰』で、ミソギ祓の言葉とは、現在修祓のときに使われている修祓の詞の本の姿のものだとしている。

 篤胤が“天津祝詞之太祝詞事”として世に現したこの禊祓祝詞は、現在、神道教派系・新教派系・諸教系の教団等で、大祓詞の太祝詞=秘咒=のそれより離れ、「天津祝詞」として独立した形で奉唱されている。

 熱海にある世界救世教は教義などに大本の影響を色濃く残しているが、神前に向かうとき必ずこの天津祝詞を唱える。私事だがこの教団の祭典部には十年以上前から伺っているが、現在も延喜式祝詞の解読の勉強会などを行っている。この教団から分派した浄霊(手かざし)系教団は孫教団まで含めれば四十とも五十とも言われている。詳細は解らないがほぼ総ての教団がこの天津祝詞を唱えているものと思われる。この稿は次号も続けたい。

(奈良 泰秀  H17年4月)