日吉大社東本宮(国宝) 御祭神:大山咋大神

 講座や講演会のあとで時間があれば質疑に応じている。質問されることは多岐にわたる。神職と神官の違い、神職資格や階位の取得について、神職が仏教式葬儀で行う例があるのは何故か、神社と神道教派系の祭式行事のおもな違い、祭神が異なるのになぜどこの神社もご利益は同じなのか、無人の神社が多い理由、神道と古神道の違い、などなど。これらについては機会をみて触れるが、現在、神社を包括する神社本庁が公的な役所の一機関だと思い込んでいる方も多い。宗教年鑑には神社本庁と同じような神社神道系の包括団体が、十六団体も記載されていると言うとほぼ意外だという顔つきをされる。

 過日、企業の信用調査を行う調査員と仕事の話しをする機会があったが、神奈川県神社庁はどこの省庁に属するのですか、と真顔で聞かれた。役所と勘違いするような紛らわしい名称からか、このことはたまに訊かれる。神社本庁は単なる民間の一宗教法人で、都道府県の神社庁はその傘下の組織に過ぎない、と答えても納得して貰うまで多少の時間が必要だ。戦前、国家が神社を管理していた国家神道観の名残がまだあるようだ。神社イコール国の管理のもとにある、といった考えだ。

 終戦の年の昭和二十年十二月、GHQ(連合国軍総司令部)は日本政府に対していわゆる神道指令を発令する。四項目から成るこの指令は、国家及び政治と宗教の分離を目的としていた。国家の神社神道への財政的な援助と信仰の強制を禁じ、国民の信仰の自由を指示している。これにより神社は国家の管理下から離れ、民間の宗教法人への選択を余儀なくされる。当初、金光教や天理教と同じような教派系の“神社教”で発足する構想が有力だったようだ。それが神社連盟的な形式の包括団体としての現在の神社本庁で収まるが、明治以来、八十年足らずで国家による神社支配の制度は一片の指令で一挙に崩壊した。

 王政復古を唱えた明治にはいって祭政一致が国政の基本理念となる。天皇親政のもと約千年振りに神祇官制度が復活し、神社は“国家の宗祀”となった。天皇を核として近代的な統一国家を実現させるために、天皇の祭祀と共通する民族信仰に基づく神社の祭祀儀礼は、国民を統合するため必要不可欠だったとも云えよう。すべての神社は国家の機関となる。神社祭祀令などによってその維持運営には国庫から補給費が支給された。

 だが新政府の神社の管理制度が確立するまではいろいろと混乱もあり紆余曲折があった。

 六世紀中頃に百済から伝来した仏教は、日本の神道に接触と働きかけを始める。仏教サイド主導で調和が取られ、徐々に神と仏が融合していく。いつの間にか神々は読経を好まれるといった思想も生まれ、神前読経のために神社に付属した神宮寺・神護寺などの寺が数多く建立された。神々が寺院を守護する役目を持つともされ、そのために神社が建てられ、鎮守という思想も広がっていく。神社に仏像が安置され、社殿で僧侶が読経を挙げ護摩焚きをする風景も見られるようになる。このような信仰風習は明治の神仏分離まで続く。

 神仏同体といった習合の完成は鎌倉時代。神々を巧みに仏教化させた信仰形態が、千年以上の長きにわたって明治まで続いて来たのだ。神道が仏教に隷属化した形だが、仏教の影響を受けない神社はごく稀だった。

 新生の明治政府は、維新直後の明治初年(1868)三月十七日に「神仏分離」を布告する。同月二十八日に「神仏判然の令」を発布。翌四月四日、十九日、二十四日と矢継ぎ早に追加事項などをも出し、それまでの“諸事一新”を計る。それらをまとめると、① 神社に所属し僧形で奉仕してきた僧侶の還俗、神社への社僧の奉仕の禁止。② 仏像を神体とすることを禁止、社前の仏像・仏具の除去、神社内の鰐口・梵鐘・仏具の撤去。③ 権現・菩薩・牛頭天王などの仏語による神号の禁止、などである。裏を返せば、それまで当然のようにそのようなのことが行われてきたことになる。なかには精進の神として魚肉を供えなかった北野天満宮等が、これを止めて魚肉を献じても差し支えない、といった一項もある。

 神社から仏教的な要素の払拭を目的としたこの神仏分離・神仏判然の令は、新政府は意図しないものの、結果として廃仏毀釈運動といわれる運動を惹起してしまう。布告の急速な実施で混乱もあったろうが、全国的に広まったこの運動はすさまじいものだったようだ。旧幕府の権力と結びついていた仏教勢力に、新時代への改革を敏感に感じ取った民衆のエネルギーの矛先が向けられたということだろうか。それまで神職は社僧より下位の立場に置かれていたが、この運動の勢いを得て各地で仏教関連への破壊行為を行っている。比叡山延暦寺の支配下にあった日吉大社などは、神職が神殿にあった仏像や仏具・教典などを持ち出し、徹底的に破壊し焼却して僧侶を放逐したという。

安倍清明

 余談になるが私共の研究会では来年の一月に、三十年以上も“七福神”の研究されて来られた一色史彦先生にご講演をお願いしている。一色先生は東大の博士課程を卒えられた日本の建築文化史がご専門の大家。文化財の保護目的で古い神社の建築構造や老朽化などの調査も数多くされている。神威を畏れ眼が潰れると慄く氏子総代や神職が決して立ち入ったことのない神殿の天井裏に上って、時折り埃まみれになった年代物の貴重な仏像を見つけるそうだ。当然、廃仏毀釈を恐れて隠匿されたもの。慌てて隠したものだろうが、僅か百三十数年前にあった騒動だ。

 仏教の一派で山岳信仰をベースに神道とも深い関わりを持つ修験道も、道教や陰陽道なども習合して奈良時代に独自の信仰形態を成立させたが、この判然の令の余波で禁止されている。それと暦や方角の吉凶を占い民間信仰として広く社会に定着していた陰陽道もだ。平成に入ってちょっとしたブームを作ったが陰陽道といえば安倍清明の名が直ぐ出る。これも百済を通じて六世紀始めの継体天皇の頃には伝来していた。律令制度のもとに陰陽寮が置かれ、ときには天皇の命運をも予言する官僚としての陰陽師が存在した。しかし次第に神秘的な方向に進んでいき多くの俗信も広まった。明治五年、陰陽道は迷信として廃止させられる。それとそれまで宮中祭祀を掌ってきた白川家や、免許状を発行して地方の神職支配に絶大な力を誇ってきた吉田家なども任務を解かれ、神社支配を否定されて没落の一途を辿る。

 新政府が明治初年に復活させた神祇行政を管掌する神祇官制度は、その後、猫の目の如くめまぐるしく移り変わる。

(奈良 泰秀  H17年10月)