「本居宣長 四十四歳 自画自賛像」

 移ろい過ぎゆく時の足並み速く、気がつけばすでに師走―。四季折々の季節感が薄れている昨今だが、年の瀬が近づくとやはりなにかと気ぜわしい。

 本紙前号に、伊勢の神宮の外宮で行われたアイヌ古式舞踊を奉納した「まがたま祭」の記事が載っていた。恒例となっている外宮勾玉池での奉納行事は今回で七回目だが、三年前から私共の研究会もこれに協力している。それに参加することと、出版予定を遅れさせてばかりいる“元伊勢紀行”の本の現地取材を兼ね、車で晩秋の伊勢路へ出掛けた。

 二日間にわたっての行事とご参拝を終え、神宮摂社の伊雑宮や佐美長神社などを参詣して松阪市に宿泊した。

 松阪は戦国時代の近江国日野出身の武将・蒲生氏郷が造った町。文武両道に秀でた氏郷は初め織田信長の人質だったが見込まれ女婿となる。後に秀吉の有力武将となって小牧・長久手の合戦で功績を挙げ、伊勢松ヶ島といわれていた現在の松阪に十二万石を与えられた。三十三歳の天正十六年(一五八八)にこの地に築城する。氏郷は高山右近の影響でキリスト教の洗礼を受け、レオンという洗礼名を得ている。その後、九州征伐や小田原攻めなどの戦功で陸奥守護となり奥州会津若松を得、さらに石高を重ねて九十二万石の大大名となる。しかし発病して文禄四年(一五九五)、わずか四十歳で急逝。その才気技量を恐れた秀吉の毒殺説、石田三成や上杉景勝の謀殺説もある。氏郷が長命ならその後の天下の勢力地図も変わっていたといわれた。

 会津ではキリスト教の布教にも力を入れたことで家臣に信者も多く、農村や山間部にも信仰が広がった。後に江戸幕府の切支丹禁止令でたび重なる弾圧を受けるが、頑固な会津人気質ゆえか隠れ切支丹となって信仰を持ち続けた者も多かったようだ。現在でも会津地方では石造りのマリア観音と称する観音像や、十字架模様の入る地蔵などが点在している。

 氏郷が会津に転封ののち松坂は紀州藩領となるが、氏郷は城を要に、扇状に武家・商人・職人の町を配してその外側に社寺を置き、伊勢への参宮街道をも引き込んでいる。さらに、信長が安土城下の繁栄を図って自由経済による発展を目指した楽市楽座の制を導入し、これを布告して商人を集め城下の活性化を計った。そのせいか、かつて商人の町として栄えた町並みにはいまだに城下町の風情が残る。松阪市は今年から一市四町が合併したことで人口十六万五千人の新誕生の都市となり “地域の個性と誇りと美しさの交流都市”をうたい新しい市制が敷かれている。この松阪、明治以前は松阪の阪が坂だったが、明治三年に大坂が大阪になったことでそれに倣ったらしい。

 松阪市の郷土の誇りは、この地で生誕した国学者・本居宣長。宣長が三十五年の長い年月、心血を注いで打ち立てた金字塔の『古事記伝』四十四巻は「記伝」として世に残る。

 本欄で前にも述べたが、“中世まで他の史書に埋もれて陽の目を見なかった古事記も、宣長の古事記伝がなければいまだ、ただの雑書の扱いだったかもしれない”と私の古神道講座などで教えている。『直毘霊』『万葉集玉の小琴』『玉鉾百首』『玉くしげ』『鈴野屋問答』などの古道・国学の書をはじめ、語学者としての『詞の玉緒』『字音仮字道』。文学論『もののあわれ論』『うひ山ぶみ』。随筆『玉勝間』、和歌集『鈴屋集』などなど、宣長の著書は実に二百冊を超える。感動する情緒や繊細な美的感受性などあるがままの情感を現し、“もののあわれ”を知ることが文学の本質であることを『源氏物語玉の小櫛』で説いた意義も大きい。いずれにしても古典の持つ価値を再発見し、それを後世に遺した業績は賞賛される。

 宣長は享保十五年(一七三〇)、松坂本町で木綿商を営んでいた小津家の長子として生まれる。両親の実子としては最初の生まれだが、既に養子が居たので次男の扱いも受ける。幼名は富之助。宣長が十一歳のとき江戸にあった店でまだ四十六歳だった父親を亡くすが、二十二歳のときには四十歳だった義兄をもまた同じく江戸の店で亡くしている。和歌を詠み桜と鈴を好んだ宣長は松坂の地を愛し終生離れることなく、晩年は山室山に出向き自らの墓地の場所を決めている。

 本居姓は先祖の旧姓で、宣長在京の二十三歳のときに改姓した苗字。父を亡くした十一歳の頃から通称名を弥四郎としたが後に健蔵と改名し、医者となった二十六歳に宣長と改め、号を春庵と名乗った。その後、生涯名前は宣長で通したが、六十六歳で号の春庵を中衛と改めている。余談だが映画監督の小津安二郎はこの小津家の家系の出ということだ。

 宣長は十五歳で赤穂義士の話しを聞き『赤穂義士伝』を書いているが、既に十代で書写や幾つもの書を著している。母親は商売を覚えさせようとしていたらしく、十六歳で江戸に出て一年間叔父の店に寄宿する。だが、どうも商人向きではなかったようだ。十九歳で伊勢山田の紙商・今井田家の養子となり紙商売を始めるが、僅か二年で離縁され、紙商もやめてしまっている。

本居宣長 旧宅

 宣長が商人に向かないと悟った母は医師の道を勧め、二十三歳で医学修行のため憧れていた京に上る。それからの五年半は京都に在って、宣長は儒学・国学・和歌・古典といったさまざまな分野に眼を開いていく。芸州浅野家の儒学者で京都居住を許されていた堀景山を師と仰ぎ、寄宿しながら儒学・漢文学を学ぶ。同時に、若くして高野山で両部大阿蘭梨の位を得た真言宗の僧・契沖の『百人一首改観抄』に触発される。独学の宣長に契沖の与えた影響は大きかったようだ。後に賀茂真淵と出会いスケールの違いを実感したようだが、晩年まで契沖に対し師としての尊敬の念は変わらなかった。

 契沖は摂津尼崎の生まれ。祖父は加藤清正の家臣ともいわれるが、父は尼崎藩士の禄を離れ牢人となる。契沖は、友人の下河辺長流が水戸光圀の依頼で万葉集の注釈書を手掛けるが、下河辺が没したことでこれを継承。『万葉代匠記』三十一巻を完成させる。この書は万葉研究の基礎を築いたとされ、高く評価される。なかには本書の成立をもって“国学”が始まったと見る識者もいる。光圀は報償として金千両と絹三十匹を与えている。契沖は他にも古今集の注釈書『古今余材抄』、伊勢物語注釈書『勢語臆断』、記紀の歌謡研究『厚顔抄』など優れた業績を残した。

 宣長は古典研究の傍ら、二十四歳で医学習得のため堀元厚の門弟となるが、翌年元厚は死去してしまう。その後、景山門下でもあった後の後桃園天皇の御殿医を務めた小児科の武川幸順の塾に再入学。医療の実習を重ね、二十八歳で松坂へ帰り小児科医を開業する。

(奈良 泰秀  H17年12月)