「穿孔した岩笛」(糸魚川原石)

 六年ほど前、「岩笛の会」を立ち上げた。私共の古神道講座では岩笛吹奏も受講科目に入っており、岩笛を通して受講者や同好者の親睦の輪を拡げていこうというもの。

 さらに、◎神籬(ひもろぎ)・磐境(いわさか)跡(あと)を探訪しての岩笛吹奏 ◎岩笛を吹奏する神事の見学 ◎霊学と岩笛の講話 ◎岩笛の音楽会 ◎岩笛と古代食 ◎岩笛での自分発見 ◎“神霊降下の儀式に使用される岩笛”から“気を鎮め、心が癒される岩笛”までの『岩笛の本』の発刊、などをうたっている。

 発会式には、昨年帰幽された中西旭先生や小林美元師、古神道研究の菅田正昭氏をはじめ、所有している自慢の岩笛を持参した好事家などが参加した。岩笛についての講演と吹奏指導のほか、岩笛がテーマの舞や本田霊学の鎮魂帰神法の模擬なども行った。

 だがその後はたいした活動もなく、停頓したまま現在に到っている。時おり何人か集まり、居酒屋などで岩笛の話題を肴にする飲み会程度で終っている。それでも最近は、少しずつだが岩笛に関しての問い合わせや頒布の申込みが増えて来ている。

 岩笛とは、石笛、磐笛、ともいわれ、「石に自然の穴ありて、吹けば鳴るもの」といった定義がある。形状が大きくなると磐笛と称されるようだ。海岸や河川で天然の石に巻貝やニオ貝などが付着し、何年もの間に貝が出す酸によって大小の穴が開く。これを海辺や川で採取するのだが、その石も“堅くて重く古い活(い)き石”(「霊学筌蹄」)が最良とされる。あれこれ流布する場所の情報をもとに海岸や河川へ採取に行っても、必ずしも望むような石を拾えるとは限らない。

 このような天然石の岩笛に対し、全国各地の縄文時代の遺跡から、人工的に穿孔した岩笛が幾つも出土している。縄文期は現在より一万五千年前の草創期から、早期・前期・中期・後期、晩期の六区分が一般的。このうち岩笛の出土は、今から四千数百年前の中期あたりの遺跡から特に多いようだ。

 鳥取県米子市の目久美遺跡からは十二センチ程の長円形の、前期のものと思われる岩笛が発掘されている。岐阜県郡上郡の東乙原からは九センチの円筒形のもの。千葉県市川市の曾谷遺跡の岩笛は翡翠製で、國學院大學が所蔵している。東京国分寺市や遠く離れた鹿児島県西之表市からも、同じく翡翠の岩笛が発見されている。北海道の日高地方、函館の谷地頭遺跡、岩手県南村湯沢遺跡、宮城県登米郡の長者原遺跡、長野県塩尻市の焼町遺跡等々、岩笛の発掘場所は全国に点在している。

 青森の三内丸山遺跡の存在は江戸時代から知られていたが、本格的な発掘が始まったのは昭和二十年代。そして平成六年、直径一メートルもある栗の巨木を使った縄文中期の大型掘立柱建物跡の発見がきっかけとなり、これまでの縄文史観は大きく塗り替えられた。

 この三内丸山の遺物からも、テニスボール大のものを始め、穿孔された大小さまざまな翡翠が数多く見つかっている。翡翠は国内で採れる最も硬い石で、唯一産出される新潟県糸魚川産であることが確認されている。当時の翡翠は、のちの金や砂金に代る貨幣の役割を果たしていたように思える。五千五百年前から約千五百年間、集落の最適人口の五、六百人の密度を守り、既に農耕を行い、編布を用い、硬い翡翠に穴を明ける技術を持ち、中国を凌ぐ漆器を作っていたことは、ただただ驚きだ。純粋な精神文明に加え、全国に渡って流通交易が盛んなルートがあったことにも驚嘆する。また、日本から六千キロ離れた南洋のバヌアツ共和国で、三内丸山から出土した土器と製造法や粘土の成分が同じ円筒土器がまとまって発見され、なんらかの交流があったことが判明したという。夢のような話しだ。いつも言っているが、一万二千年近く続いた縄文文明の基層を見直さなければ、日本人の精神性は見えてこない。

 余談だが二年前に国立歴史民族博物館が放射性炭素の年代測定で、縄文の後の弥生時代の開始年代が約五百年遡ると発表した。五百年問題として反響を呼び、これまでのラフな年代設定に疑問の声も挙がった。この弥生期の遺跡から岩笛の発見はなく、弥生がくい込むと思われる縄文晩期からは、文様が施された土笛が出土するようになる。さしずめ岩笛は縄文のもので、土笛は弥生のものと言えるだろう。

 岩笛は、衝撃に弱い土製品や風化や腐食がある木製品と異なり破損度が少ない。原型を留めて残されているが、当時の祭祀や呪術の神具として用いたものと言われている。または音楽で使われたとの見方もあるが、或いは交信や合図の手段としての役目を果たしていたのかも知れない。いずれにしろ岩笛が日本の音の原点にあることに異存はない。

 縄文を始原とする岩笛を語るとき、岩笛を宗教楽器として世間に認めさせた神道霊学中興の祖・本田親徳(ほんだちかあつ)(一八二二~一八八九)の存在は大きい。親徳翁は薩摩藩典医の家の生まれ。十七歳で上京し、水戸学を学ぶ。京都滞在の二十一歳の時に狐憑きの少女が憑霊現象で和歌を詠む姿を見て霊学研究に入る。爾来四十年、研究に没頭し霊学体系を確立させ古神道霊学の源流となる。出口王仁三郎、長沢雄楯、副島種臣、友清歓真など後世に名を残す古神道家に多大な影響を与えている。

本田 親徳

 親徳翁は上古の鎮魂帰神法を復活させたが、古事記の仲哀天皇の条では、仲哀天皇が琴を弾き神功皇后が神霊の憑尸(よりまし)となり神託を受け、建内宿禰(たけうちのすくね)が審神者(さにわ)を務めている。親徳翁が行った神道行法の帰神術(神懸り)では、琴に替えて岩笛を用いている。鎮魂帰神法で本田霊学を確立した親徳翁が岩笛を用いるようになったのは、平田篤胤の影響ともいわれている。

 琴といえば文政三年(一八二〇)、伊予国(愛媛)の中山琴主が出雲大社に参詣の折り神示を得、須佐之男命が所持していた“天(あめ)の沼琴(ぬごと)”を復元、創案したものが二弦の八雲琴。出雲琴とも称したが、「岩笛曲(いわぶえぶり)」という歌がある。

 美保(みほ)の崎(さき)の あり磯(いそ)の石を 吹きなさば 惟神(かむながら)なる 天(あま)の岩笛

 日の大神(おほかみ)に 捧げましけむ 神つ代の  事代主(ことしろぬし)の 岩笛ぞ 此(こ)れ

 これは明らかに篤胤大人(うし)の『古史傳』にある「八重事代主神は天石笛(あめのいはぶえ)を製(つく)りて、皇美麻命(すめみまのみこと)に奉(たてまつ)りて、祝ひ給ふ」に拠っている。同じく『古史傳』で「天石笛は、磐(いは)もて製(つく)れる笛なり」と記している。一般的には天然自然の岩笛が最良とされるが、篤胤は人工的に穿孔して作った岩笛を、海岸や河川で採取する自然石の岩笛と同様に扱っている。

(奈良 泰秀  H18年3月)