チュニジアの保養地タバルカにて(前列中央:筆者)

 旅はひとを変える―。

 私にとって、異郷の底辺と同じ視点の寝袋の中から見る景色は、「オルタナティヴな自分自身」―、いまの自分ではない何処かに居る別の自分の存在を、知らせてくれる旅でもあった。その頃はまだ宗教も神道もまったく無縁だったが、旅を続けることで日本人であることを自覚させられていった。

 モロッコからヒッチと最下等の客車で移動し、国境を越えたアルジェリアは、マグレブでフランスから最後に独立した国だ。現地民が、独立に反対するフランス植民地軍やヨーロッパ系入植者と熾烈な戦いを繰り広げた。そのときの銃弾の痕跡が、まだそのまま建物や汽車に残っていた。

 その隣国は、国名がフェニキアの女神の名に由来するチュニジアである。面積は日本の半分もない小さな国だが、かつては地中海世界の大国として歴史に名を残している。やっとの思いで国境を越え、さらに十数キロ歩くと、タバルカという保養地に着いた。二千五百年前は貿易港として栄えた町だ。そろそろ夏も終わる頃の夕暮れだった。

 気が合ってモロッコから一緒に旅を続けてきたのは、イギリスで三ヵ月の語学研修を終えて気ままな旅をしていたI兄弟。そして二週間ほど前に行き会い、タンザニアまで行くけれどアラブのひとり旅は心細いと、途中まで同行することになったTとの四人連れ。

 いつも腰に短剣をぶらさげているTは東京銀座・三越裏のフランス料理店の御曹司。柔道二段。明大を四年で休学し、日本から旅に出て南米も廻り一年半が経っていた。

 そのとき、私たちは現地の通貨を使い果たしていた。当時、このマグレブ三国では国境で隣国の通貨が交換できず、日本の円も現地の通貨と交換できるのは首都の中央銀行という状況であった。国境で我々とは反対にチュニジアからアルジェニアに入るヒッピーと手持ちの通貨を換えたが、それもほんの僅か。残り少ないドルも曜日と時間が合わなかったため銀行での交換ができず、無一文に近い状態だった。

 夕闇近い町から近くの海辺に出て、岩陰に野宿の寝場所を確保したが、夕食のために四人の小銭を集めても一人分にも満たない。町の場末で空腹をかかえ、裸電球の灯るバラック造りの安食堂がぽつぽつ並ぶ辺りを行き来していると、五、六人の若いアラブ人とすれ違った。そのうちの一人が足を止め、一瞬肩を落とし、覗くようにして声を掛けてきた。

 「日本人か?」。何日振りかで聞く日本語。

 「そうだ!」。アラブ人と同じような口髭で、色の浅黒い精悍な感じの男が立ち止まった。Tシャツに半ズボン、素足にゴムぞうり履き。渡りに舟とばかりに事情を説明し、I兄弟の兄は手首から腕時計をはずし、明日銀行でドルを替えてから返すからと、初対面のこの日本人に借金を申し込んだ。私より二、三歳若そうな男は話を聞き、半ズボンのポケットから現地のディナール札を取り出し、何枚かをよこした。明日訊ねて行くからと居場所を聞くと、岬にテントを張っているから来ればすぐに判ると言い、名前はイトウと名乗った。腕時計も私の差し出した千円札も受け取らず、連れの若いアラブ人を促すと行ってしまった。

 その夜、我々はタジンという羊肉のシチューやクスクスで満腹になった。幸せな気分で寝袋の中から澄んだ夜空を見上げると、日本より何倍も近く見える星が満天に散らばっていた。ふいに家族のことが思い浮かんだ。街のネオンの色や緑の濃い田舎の風景が、脳裡をよぎった。こんな遠い異国から想うオレの国ニッポン…。ちょっぴり感傷と望郷の思いに浸りながらいつの間にか寝入った。

 翌日、私たちはイトウを訪ねた。いつの時代につくられたものか、浜辺から海面すれすれに砂で固めた幅三メートルも無い細い道が、定規を引いたように真っ直ぐに海に向かって延びていた。その五百メートルほど先には海に突き出た小さな岬。茶褐色の岩肌とまばらな木陰に崩れかけた城壁が見え隠れしていた。

カルタゴ遺跡(チュニジア)

 このカルタゴか古代ローマ帝国の遺跡の向うは、空と海との区別がつかない蒼い世界。

 岬の入り口に近い場所に彼の白いテントが張ってあった。周りで若いアラブ人が数人たむろしていてバーベキューの煙を上げていた。ふと見ると、木の枝に張ったロープに洗濯した空手の道着が干してある。

 「あれ?空手の稽古着か…。こっちにもやっていたのが一人いるぜ」。ふと洩らしたTのひと言に、イトウがゆっくり近づいてきた。

 「…ひとつ手合わせ願おうかな」。

 えッ、冗談じゃない!。学生時代に空手部に在籍していたが、ここ何年も稽古などやっていない…。

 しかし、いつの間にか生乾きの稽古着を借り、上半身裸で半ズボン姿のイトウと向き合う羽目になってしまった。大袈裟な、緩慢な動作の構えを見せたと思った瞬間、すさまじい勢いの前蹴りが顔面を襲ってきた。

(剛柔流か?)流派を思い浮かべる間もなく、反射的に身を退き辛うじてかわすが、体勢を立て直す間がないほど三度四度と強烈な蹴りが続いた。(これは本物だ!)。だがもう遅い。何度か転倒し、その度に砂を払い彼と向き合った。(こうなりゃ捨て身だ!)。隙を見つけて相手の胸を目がけて反撃の突きを繰り出すと、避けようとした相手もまた砂に足を取られ派手に転倒した。

 突きと蹴りの応酬がしばらく続いたが、汗と砂にまみれたイトウが構えを解いた。息遣いを荒くしている私に

「オイ、もう止めよう。日本人同士が怪我をしてもしょうがない」。蹴りを払おうとしてしたたか打った猿臂(えんぴ)を押さえ、内心ホッとした。いつの間にか遠巻きにアラブ人の輪に囲まれていた。イトウと向き合い礼をすると、口笛やら喚声が湧いた。

 その日の夕方、イトウが私に話があると我々の寝場所に来た。二人で砂浜に腰を下ろすと、地中海に沈む赤く大きな夕陽が空を橙色の染めていた。少し沈黙のあと、「俺と組まないか」と彼は意外なことを言い出した。どういうことかと尋ねると、彼はアラブ人相手に空手を教え、街から街へと移動しているという。スポンサーや練習生次第で青空教室から御殿のような稽古場までさまざまだか、数日間から数ヵ月一ヵ所に留まり、その間に紹介者を捜し、次に移る街を決める。

 芸は身を扶けるというが、空手にもこんな稼ぎかたもあるのかと感心した。イトウは空手をひろめる活動をしているというが、そのときは武道としての空手を金銭に替えることに複雑な気持ちにもなった。気がつけば武道の空手はいつの間にか精神不在のスポーツ空手となり、K-1では単なる格闘技の一つの技としてあつかわれているが…。

(奈良 泰秀  H18年8月)