初春のモロッコにて(筆者)

 私がアラブの旅をしていた二年ほど前の一九七二年五月、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港で銃撃乱射事件が起きた。

 二十六名が死亡し、七十数人が重軽傷を負った。この事件を引き起こしたのは、七〇年の「よど号」ハイジャックに加わった岡本武の弟・岡本公三とその仲間の二人である。七一年から中東に活動基盤を置くようになっていた日本赤軍の前身「赤軍派アラブ委員会」に加わり、犯行に及んだものであった。

 この事件で仲間の京大生・奥平と安田の二人は死亡。駐機中の飛行機爆破をも目論んで飛行場に出た岡本は取り押さえられる。

 “死んでオリオンの星になる”と言っていた岡本は、二ヵ月も経たず軍事法廷で裁かれ、終身刑で投獄された。

 パレスチナ解放人民戦線や武装ゲリラとの連携で東洋からやって来たコマンド岡本は、ユダヤ人社会では狂気の殺人鬼でもアラブ世界では英雄だった。街なかで「シノア」と中国人に間違えられ、「ノン、ジャポネ!」というと、「コウゾー!、ジュードー!、カラティ!」と手を振って歓声をあげられた。日本人の人気は絶大だった。イトウはそんな事件で得た日本人びいきの評価でアラブ世界で空手を教え、各地を廻ることが出来たのだろう。

 だが彼は、アラブの連中はこらえ性がなく、少しでも突きや蹴りが当たると大袈裟に喚きたて、こん棒を振り上げて怒る者、倒れたまま決して動こうとしない者、四つんばいのままぶざまに逃げ出す者など、教える側から見ると非常に扱いにくい人種だという。

 久しぶりに骨のある相手と出会い、空手は日本人の競技だということを実感したし、今後、二人で組んで技を教えると現地の連中に理解されやすいという。それに空手の普及に貢献していると思うし、できれば武道を奨励しているリビアかアルジェリアかモロッコに腰を落ち着けたいとも言った。

 仕事は人に任せ、家族を放ったまま日本を離れて旅を続けていたものの、少しずつ祖国への想いを募らせていた私としては乗れる話しではない。だが、本気な態度の相手の手前、少し考えてみる、と即答を避けた。イトウは、当分日本へ帰る気はないという。帰れない事情でもあるのかと聞くと、返事が無かった。

 二、三日経って彼のテントへ行くと不在で、取り巻きの若いアラブ人が街へ行ったという。帰るまで待てと言われたが、身振りを交えながら我々はチェニスに向かったとの伝言を頼み、タバルカを離れた。

 チェニスへ向かう貨車の中で、Tは突然声を上げた。「思い出した!なんか引っ掛かると思ったけど、あいつマドリのユースからノート持ち逃げした奴だ。聞いていた人相と一緒だ…」。

 スペイン・マドリッドのユースホステルは多くの日本人も利用する。長い間居続ける者もいる。なかには旭日旗を貼って番長室などとドアに書いている者もいた。ユースにはさまざまな情報が集まる。初め誰かが用意した日本人用のノートには、いろいろな国や街での体験談や情報が記されていた。アフリカで所持品すべてを盗まれ、物乞いをしながら辿り着いたとか、親日家の有力者の個人名なども書かれている。その貴重な生の情報を記した何冊かが持ち出され消えたという。Tはその持ち逃げの犯人がイトウだというのだ。

 「それにしてもマドリの日本人は芯がないよなぁ、めだかみたいに群れちゃってさぁ…」

 とTがつぶやいた。たしかにマドリッドには目的を持たない日本人の若者が大勢居た。物価が安く生活がしやすいことで、ここに留まり無為な毎日を送っているのである。バザールで時折、西部劇のテンガロンハットに似た革の帽子を被った者を見ると、お、モロッコ帰りだぜ、と羨望の眼差し。危険と思われる冒険や旅はしない。ブラックアフリカやアラブ世界に踏み込む勇気もない。

 「スペインに神社かお寺建ててそこであいつらの精神鍛えなくちゃなぁ」

 当時の私は神社や寺には無縁だったが、Tの言葉にそんなものかと思えた。後にはまったく同感と思うようになった。

 翌年の春、再びI兄弟の弟と二人でモロッコを訪れた。彼は前の年、長逗留していた首都のラバトで知りあった現地の女性と恋に落ち、日本に帰ってからも頻繁に手紙や電話のやり取りをしていた。デートを重ねる二人と行動を別にしているうちに、私は現地に住んでいる数少ない日本人と知り合った。渡辺という柔道六段の武道家で、美しいアルジェリア人の奥さんとの間に二人の子供がいた。

モロッコからの逗留先で(左から2人目・筆者)

 渡辺氏は国王の弟や親衛隊の隊員に柔道を教えていると云う。以前、世界に出ようとブラジルでプロレスと試合をして、他流試合と金銭を賭けたことをとがめられ、日本の柔道界を追放されたということだった。わずか三十年ほど前だが、現在とは隔世の感がする。

 そのころのモロッコでは、王室の汚職や腐敗で民衆の不満が高まった結果、クーデター事件が二年続いて起きていた。一度目は宮殿で催されていた宴会中に士官学校生徒が蜂起しての反乱事件である。その翌年には、国王暗殺を狙った国王専用機への襲撃事件が起こっている。静養先から帰国したハッサン国王機が自国領に入り、護衛を装った空軍機に機銃で襲撃されたのである。

 重傷を負った操縦士に代わり国王は自ら操縦桿を握り、「国王は死んだ、国王は死んだ」と管制塔に怒鳴って伝え、それを聞いた空軍機は引き返したという。空港に着陸した国王は直ちに関係者の探索を開始した。

 翌日、クーデターを企てた首謀者の国防相が自殺と発表された。実際は数発の銃弾が身体に残っていたとか。余談だが、この時の後日譚の記事を近年眼にした。国防相の家族七人も捕らえられ、砂漠の苛酷な監獄に幽閉された。拷問と虐待に耐え、十五年後に四人が脱獄に成功。フランスのマスコミを通じて悲惨な状況を世界に訴え、更に十年近くをかけ、家族全員が自由を手にした、というものだ。

 王室警護にあたる将校や下士官に柔道を教える渡辺氏はモロッコ王国発行のパスポートと憲兵大尉の肩書きを持つと聞かされた。その彼から一つの情報がもたらされた。

(奈良 泰秀 H18年9月)