國學院大學・校内の神殿

 ベトナム戦争が終り、ヒッピーの多くが自分の街へ帰っていったころ、まだ自分探しの旅を続けている者もいた。私もヒマを見つけては海外に出ていた。家には東京キッドの役者たちや芝居の関係者が絶えず出入りし、海外から尋ねて来る者も多かった。なかには一日も働かずに、半年以上も我が家に居候を決めこんだオランダ人も居た。

 仕事を人に任せて、家庭も顧みず勝手に旅に出るうえ、他人の出入りで家庭の態をなしていない生活に呆れ果てたのか、パートナーは家を出ていってしまった。両親にはわれ関せずの三人の子供らは、祖母が面倒をみてくれることとなった。勉強を強制したことは一度もなかったが、三人ともそれぞれ国立の付属校に入学し、真面目に通学してくれたのだから、なにが幸いするかわからない。

 そのころ、人を介して、後に私の師となる広島の天ノ岩座神宮宮司・溝口似郎先生と出会う。「うちは日本一貧乏な宗教法人だが、祈りは本物だよ」と溝口先生は言われ、奉斎する磐境の祭祀の意義について語ってくれた。この先生の教えが、自分の新しい世界を拓いてくれるように思えた。後年、教祖を持たない神道の起源を、遡及し得る限度を稲作開始として農耕民族の信仰とする定説に疑問を持つようになったのも、師との話の結果だ。

 紀元前数世紀ころが神道のスタートの起点と思われてきた。だが、渡来系が持ち込んだ稲作の弥生文化の見方は崩れつつある。科学の発達でこれまでの常識は覆されていく。国立歴史民俗博物館が炭素測定法で、弥生時代の開始が五百年遡ると発表したのは三年前だ。稲作の起源は縄文前期の六千年前まで遡ると発表されたのも最近のことだ。

 弥生以前の縄文は、記録が無いことで、野蛮で低劣な時代と思われてきた。だが、それは間違いだと師は言う。「縄文は見直さなければいけない。そこには無心に神を信じた人々の生活があり、日本人の信仰の原点がある。磐境での真摯な祈りは、自然と神と共に生きていた縄文の人々の純粋な魂へ繋がる」と。

 しかし、一万年以上の長い歴史を持つ自然の森や山の奥で受け継がれてきた縄文の信仰は、断絶されている。それは、明治時代、皇国史観確立のため、弥生以前の縄文は封印されたのだ。天皇を中心とする近代化を目指す国をひとつに纏めるために、神道は再編成を余儀なくされ、縄文は異次元に追いやられ、消されたのだ。C・G・ユングが言う「遺伝子に刷り込まれている民族的・集団的・無意識深層・潜在意識」が刻み込まれ、その後に現れる異文化の衝撃を吸収して神と自然と人間を一体に包みこむ日本人の高い霊性・心性・精神性・感受性は、この長い縄文で培われたのだ。

 私は、神道が神社のみを捉えるのではなく、日常の生活のなかに潜む神道の精神性を顕すことが、これから世界に向け、神道を正しく伝えていくことになると知った。

 各地へ行脚を続ける溝口先生の荷物を持ち、車中では話のメモを取るようになった。溝口先生は悲惨で地獄のような南方の戦場から生還し、現地で戦犯となり、冤罪で死刑囚の汚名を着せられながらも奇跡的に帰国した。自分が生きて帰ったことで戦没者の慰霊を熱心にされていた。海外に出る私に、南方の島での慰霊を勧められた。

 いつの間にか南の島へ行く回数が増え、私なりの慰霊の旅を始めた。戦闘の跡にはどこも哀しい気が漂っていた。そして、草叢のなかに廃墟と化したテニアン神社跡で不思議な体験をする。大祓詞の奏上に、頭を垂れる顔の見えない数多の英霊の姿を見たのだ。その体験はいつも頭の片隅に残り、なにかの折りにはその光景を想い出させた。

 仕事を辞めた。所有していた不動産などを処分して新たな生き方に備えた。師の許に通いながら、瞑想や修法の習得などに明け暮れ、気がつくと一日も働かない五年半が過ぎていた。自分に科せられた修行の時間とも思える、あっという間の五年半。イスラームへの旅から辿り着いた惟神(かむながら)の道。以前の世俗に浸かっていた生活から環境がすっかり変っていた。

 友人が、内部紛争中の大手教団の、新たな事務所の設立を手伝う話を持って来た。社会復帰の仕事にはふさわしい。場所は東京の渋谷。時間の融通が利くことで大学の聴講に通うことを決めた。

 社会人の聴講生が十数人いた。始めの二年間で、上級神職の資格取得の聴講を終えて彼等は去って行った。私は科目を選び聴講を続けた。なかには八年も聴講を続ける者も居た。

 いつの間にか自分なりの修行と勉学の十二年が過ぎていた。自分史が、空白とも、記述で真っ黒にもなる十二年間。その間に師と仰いだ溝口先生が帰幽された。神事を私に任せきりだった先代宮司も、溝口先生を追うように逝かれた。磐座を託された私は気負いもあったためだろう、大きな間違いをしてしまった。傷んだ木製の鳥居を鋼製に替え、静寂な自然のなかにある磐座周辺の整備を計り、重機を入れ参道を拡げてしまった。何百本もの樹が倒され、景色が一変した。形にこだわる愚かさに気付いたときは遅かった。古神道なのになぜ鉄の鳥居なの、と聞かれて返答が出来ない。自然は自然のままがいい。元の自然に戻るまでには百年単位の時間が必要だろう。

 私は都会で“こころ”を伝える神職になろうと決め、役職をおりた。手伝っていた教団の紛争も終息し、役目は終った。

 久しぶりに東京キッドの東由多加を呼び出した。暫らく会わないうちに人相が変っていた。私の研究会で二ヵ月に一度開催しているセミナーに、東が同棲している芥川賞を受賞した柳美里を呼ぼうと企画したことがあった。

 以前、彼女がキッドを離れて独立しようとしていた時、数霊学で、いまに世に出るよ、と観てやったことがある。「彼女は喋るの下手ですよ」などと言いながら、飲むほどに東はしきりに長女に会いたがった。小学生のとき東の芝居の主役を務めた長女は、二人の子持ちでいまは所沢に住んでいる。長い呼び出し音のあと眠そうな声がした。「東さんが会いたがっているよ…」「なに言ってるのよ、いま何時だと思っているのよォ!」それだけで電話を切られた。深夜二時を廻っていた。また二人で飲み続け、明け方に住まいに送った。これが東と逢った最後だった。それから間もなくガンで余命数ヵ月と診断され、そして逝った。

 社会も人も移ろいゆく。仏教とは仏の教え、神道とは神の道。道を究めるのは難しいが、人それぞれの究め方がある、とは師の言葉。思えば、五十代を過ぎてやっと神道という高峰の裾野に辿り着いたような気がしている。(「番外編」了)

(奈良 泰秀  H18年9月)