宮城県指定 民族文化財 『能神楽』

 神話のなかにみる天鈿女命の、天の窟戸の前での覆槽(うけふね)の上で足を激しく踏み鳴らし、鉾で槽を衝いて神懸りする舞踊は、宮中祭祀の「鎮魂祭」の儀式に受け継がれている。鎮魂祭については後にするが、神事としては覆槽(うけふね)(宇気槽)の箱を伏せた上に女官が立ち、数を唱えながら鉾で槽の底を十回衝くという。

 今回は、天鈿女命が鎮魂のために激しく足を踏み鳴らした行為、一定の方則に従って足を踏み歩行する行為には、呪術的要素があることについて述べたい。さまざまな作法や所作において、足の動きは非常に重要であることは誰もが理解されている。前々回、ある映画での十種祓詞に呪言を入れた祝詞の奏上法と、秘術とされる修法の指導を依頼されたことに触れたが、修法のそれとは、実は「反閇(へんばい)」の秘儀足法・歩行法である。

 反閇とは道教の歩行呪術がわが国に伝来してそのように呼ばれるようになり、さまざまな儀礼や作法、あらゆる舞踊の基礎などに取り入れられた。すでに伝来していた陰陽道、日本で成立した修験道、儀式を整備した密教などの呪法を始め、神道の歩行作法、田楽や神楽、足踏みと跳躍とをする念仏踊り、歌舞伎の六方、猿楽から明治になり改称した能楽の足捌き、相撲の四股、江戸時代までの歩行法のなんば(難場)歩きなどに見られる。とくに星辰信仰による北斗七星の形のほか星の運行に合わせた歩行など、さまざまな足捌きをする陰陽道儀式には色濃く影響している。

 折口信夫先生の説だが、反閇の源流は、四千年近く遡る中国の幻の王朝・夏の始祖・禹王の歩行法に辿り着くという。それゆえ反閇は禹歩ともいわれている。これが不老長生を目的とする神仙術と原始的な民間宗教が結合した道教と習合したのである。道教は中国唯一の多神教的宗教だが、後に仏教をも取り込んで形成され、二世紀中ごろに成立している。

 そしてこの道教の禹歩は治病や長生、山中に分け入り仙薬の採取などのほか鬼神を呼び出すために行う歩行法に対し、日本に伝来して陰陽道や密教などに流れた反閇は、もっぱら悪鬼や邪霊の祓い清めや鎮めのための歩行法・足踏みとなった。独立してひとつの呪法としての修法儀式ともなるが、ある方術を執行する前の先行儀式ともなっている。現在の神道儀式での最初の行事は“修祓”だが、これに相当するようなものだろう。相撲力士の四股の足踏みに象徴される土俵入りは、かつては相撲を取る前に陰陽師が行う反閇の方術でもあった。それが廃絶され、略式化されて力士自身が行うようになった。横綱が太刀持ちや露払いを従え、掛け声をかけられて行う手数(でず)入(い)りの四股の足踏みは、悪気邪気を踏み破り、踏んだ土地を清め、そこから吉祥を呼び込むための呪法である。

 またこの反閇の歩行法から、寒夜に東大寺で行われる二月堂修二会(しゅにえ)の足踏み作法の“だだ”(達陀(だっだ))となる。足踏みをして沓(くつ)の音をさせる儀式だが、これは結界を張り、邪気や悪霊を祓う呪法だ。修二会のほかに各地方で見られる鬼踊りのある修正会(しゅうしょうえ)は、きっちりとした作法にしたがっての足の踏み方、歩行の仕方がある。それがその場所から悪霊や邪霊の一切を境外に追い出す儀式となる。はげしく足踏みをすることの“だだを踏む”“だだをこねる”の語源となる“だだ”は、もっとも原始的な呪法とされる。天鈿女命の舞踊の激しく踏み鳴らす所作は、この反閇からきていると思われる。衆を惑わせた卑弥呼の鬼道と道教との関わりはよく指摘されるが、八世紀初めに成立した「記・紀」にも陰陽道の影響が多く見られる。この編者たちが、この“だだ”を神話の重要な場面に取り入れた可能性は充分ある。それを指摘する識者はあまりいないようだが、私はそうだと確信している。

 余談だが先月、伊勢外宮で催されたまがたま祭に参加した。今年は特別に編成された十数名の沖縄舞踊団が琉球舞踊を奉納されたが、年配の舞い手の動きは素晴らしく、実に見事で感嘆させられた。反閇が琉球の舞踊に色濃く残っているのを実感した次第だ。

 さて神話から続く宮中での鎮魂祭だが、冒頭の天鈿女命が行った覆槽(うけふね)での舞いの伝承はその後、「宇気槽衝きの儀」として祭儀化されてくる。『古語拾遺』では、天鈿女命の子孫である猿女君の女性が御巫(みかなぎ)としてこの儀式を奉仕している。八世紀初頭の大宝令に拠ると、以前小欄に書いた宮中八神に大直日神を加え九神を奉祀する。神部が昇殿して十種神宝を安置後に、笛師は笛を吹き、琴師は琴を奏し、神部と雅楽の歌人は歌う。御巫(みかなぎ)が舞い、そして宇気槽の上に立ち、ひ・ふ・み・よ・い・む…と数を唱え、琴と笛に合わせ鉾で槽を衝くこと十回。数を唱える度ごとにそれに合わせ、神祇官が「御玉の緒」の糸を結び、「絲結び(木綿結び)の儀」を行ない、十度に達すればこれを葛筥に納める。さらに女蔵人がその節に応じ、「御衣振動の儀」を行うため御衣箱を持ち、開いてそれを振り動かす、としている。

 それを踏襲して現在では同じく九神を降神して奉祀する。神楽歌「安知女(あちめ)」を奏しての献饌。掌典長が祝詞を奏上し、御衣(みそ)と御玉緒が途御して案(机)の上に安置する。内掌典(女官)が宇気槽に上り、掌典補が前後の幔(とばり)を垂れ降ろす。内掌典がその中で槽を鉾で衝くこと十回。掌典が糸結びを奉仕し、畢(おわ)って御玉の緒を筥に納め、掌典補が幔(とばり)を揚げる。掌典が御衣筥(みそはこ)の蓋を開けて神前に向かい、十度振り動かして元に安置する。御衣(みそ)と御玉緒が神殿に入御し、昇神して儀式を終える。

石見国一宮 物部神社

 鎮魂祭の儀式化は七世紀の天武朝から始まり、鎮魂の本流である天鈿女命の鎮魂法も形式化されていく。御衣振動の儀は、武で仕える物部氏が神武天皇に行なった十種の瑞宝を用いて振り揺らす秘儀が祭儀化され、宮中祭祀に取り入れられた。糸結びは、産霊(むすび)信仰からの魂結びという呪法が基底にあったものが同じく宮中祭祀に取り入れられたものだ。

 しかし十世紀の平安中期に編纂された『延喜式』では、祭神から始まって祭員の数や行事作法、装束、薦の枚数まで決めた祭場の舗設まで細かく制定されているが、十五世紀半ばには、他の宮中祭祀と同様に廃れてしまい、この鎮魂祭も完全に中絶している。そして三百四十年余の長い年月を経て十八世紀終末に復興された。明治維新となり神祇官が再興されたことで新嘗祭前日の十一月二十二日に催行されることが決められ、今日に及んでいる。現在、鎮魂祭を伝承している神社は、物部の鎮魂を伝える石上神宮、中臣の鎮魂の彌彦神社、宮中祭祀に最も近いとされる物部・猿女の鎮魂の島根・物部神社がある。

 間もなく冬至期。太古に冬至は太陽の死とされた。そして新たな太陽の誕生として正月を迎えた。

(奈良 泰秀  H18年12月)