笠縫邑比定 檜原神社(大神神社 摂社)

 日本書紀に「爰(ここ)に倭姫命、大神を鎮坐(しづめま)させむ處を求(ま)ぎて、菟田(うだ)の筱幡(さきはた)に詣(いた)る。更(また)還(かへ)りて近江國に入り東(ひむがしのかた)美濃を廻りて伊勢國に到りたまふ。」とある。

 そして天照大神の、“この国に居たいと想う”ということばのままに、伊勢の地に鎮め奉られた。元伊勢伝承は、この記事によって創られていった。豊鍬入姫命と交替して御杖代となった倭姫命は、天照大神の鎮座の地を求め、皇居から遷祀された地・倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)から巡幸の途に着くのである。それまでは、豊鍬入姫命に託され、“倭(やまと)の笠縫邑(むら)に祭ひまつらせたまふ”状態にあった。豊鍬入姫命が神籬(ひもろぎ)を立てて天照大神を奉斎していた笠縫邑は、元伊勢伝承の起点となる。

 笠縫邑は、何処にあったのか―。笠縫邑の比定地とされる数ヵ所の所在地は、崇神天皇が都を遷したという磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)とそれほど離れてはいない。ちなみに瑞籬宮は、奈良県桜井市三輪の大神神社から南へ半キロほどいった、天津饒速日命を祀る志貴御縣坐(しきのみあがたにます)神社辺りとされている。鄙びたこの旧村社の小規模な神社境内に、瑞籬宮跡地の石碑が建っている。神社明細帳には祭神を大己貴神とするこの神社が、笠縫邑の比定地とする説もある。

 繰り返すが元伊勢伝承とは、『日本書紀』、神宮最古の文献『皇太神宮儀式帳』(八〇四年成立)、『倭姫命世記』の記事などから各地でさまざまな伝説を生み、歳月とともに定着していった。倭姫命世記は、神宮に伝えられた偽諸説もある神道五部書の一書で、倭姫命の一代記である。以前、明治初期の大教宣布運動の流れのなかで、神宮司庁に創られた神宮教院が自ら、神道五部書は皇祖を冒涜する偽書として指定すべきだ、といった要望書が提出されたことにも触れた。神道学者は世記の歴史史料としての価値を認めない。所功教授も著書『伊勢神宮』のなかで、儀式帳での倭姫命の巡幸地を記したあと、“中世の『倭姫命世記』などには、「淡海甲可の日雲の宮」や「尾張国中島の宮」を経たとか「滝原の宮造らしめて坐しき」などとある。”といった記述をして、世記を無視して距離を置いた書きようをしている。だがこの世記が、世情に流布する元伊勢伝承にもっとも強い影響を与えている。この世記の存在がなければ、いまのような元伊勢伝承もまた無かっただろう。

 世記の記事に謂う。

 「(崇神天皇の)即位六年己丑(つちのとうし)秋九月、倭の笠縫邑に就きて、殊に磯城(しき)の神籬を立てて、天照太神及び草薙剱を遷し奉り、皇女(ひめみこ)豊鍬入姫命をして斎き奉らしめたまふ。(略)」

 これは書紀の前出、“倭の笠縫邑に祭ひまつらせたまふ”と、『古語拾遺』の「仍(よ)りて、倭の笠縫邑に就きて、殊(こと)に磯城(しき)の神籬を立てて、天照大神、及(また)、草薙の剱を遷し奉りて、皇女(ひめみこ)、豊鍬入姫命をして斎(いは)ひ奉らしむ。(略)」の記事を流用して書かれたものだ。

 さて、笠縫邑は、比定地が八ヵ所ほどある。以前、小欄で笠縫邑についてのみは比定地の神社をあげた。重複するが、所在地も記すと次のようになる。

 (一)笠縫邑(書紀と世記に記述)

 ① 笠山荒神社  奈良県桜井市笠(鷲峯(じゅうぶ)山)

 ② 小夫天(おおぶてん)神社  奈良県桜井市小夫

 ③ 檜原(ひばら)神社(大神神社 摂社)  桜井市三輪

 ④ 飛鳥坐(あすかにいます)神社  奈良県高市郡明日香村飛鳥

 ⑤ (秦楽寺(じんらくじ)内) 笠縫神社  奈良県磯城郡田原本町泰庄

 ⑥ 姫皇子命(ひめみこのみこと)神社(多(おお)神社 摂社)  奈良県磯城郡田原本町大字多

 ⑦ 穴師坐大兵主(あなしにいますおおひょうず)神社(巻向坐若御魂(まきむくにいますわかみたま) 合祀) 奈良県桜井市穴師

 ⑧ 志貴御県坐(しきのみあがたにいます)神社 奈良県桜井市金屋

 それぞれの神社の詳細は、今後出版する本にゆずるが、伊勢神宮研究の第一人者の大西源一博士は、三輪の檜原とする③檜原神社が、笠縫の邑であるとほぼ断定されている。檜原神社境内には昭和六十一年に豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮が建立され鎮斎された。また、⑦穴師坐大兵主神社には伝承のあった巻向坐若御魂神社を応仁の大乱の兵火により焼失し合祀している。この神社は、相撲発祥の旧蹟地で境内社に相撲神社がある。尚、神社本庁に勤める後輩が送ってくれた元伊勢の資料には、①、③、⑤を比定地として記載している。

 以下、元伊勢伝承地を列記していくと、次に現れるのは但波(丹波)の国である。ただし書紀や儀式帳にこの地に就いての記述は無い。世記のみにである。次のような記事がある。

 「三十九年壬戌(みづのえいぬ)、但波の吉佐宮(よさのみや)に遷幸(みゆき)なりまして、四年を積(へ)て斎(いつ)き奉る。此より更に倭(やまと)の國を求め給ふ。この歳、豊宇介神(とようけのかみ)天降(あも)りまして、御饗(みあへ)を奉る。」(豊鍬入姫命が丹波の吉佐宮に遷幸して四年間、天照大神を斎き祀った。後に、この地から更に倭の国に奉斎する地を求められた。この年、豊宇介神が降臨され天照大神に御饗を奉った。)個々の説明は省くが、私共が比定地としたのは以下の通りである。 

但波乃吉佐宮比定 藤社神社

 (二)但波(丹波)の吉佐宮(よさのみや)(世記に記述)

 ① 藤社(ふじこそ)神社 京都府京丹後市峰山町五箇鱒留

 ② 比沼麻奈爲(ひぬまない)神社  京丹後市峰山町久次

 ③ 名木神社  京丹後市峰山町内記

 ④ 奈具神社  京丹後市弥栄町船木

 ⑤ 竹野神社  京丹後市丹後町宮

 ⑥ 元伊勢 籠神社  京都府宮津市大垣

 ⑦ 真名井神社(籠神社 摂社) 同上

 ⑧ 笶原神社  京都府舞鶴市紺屋

 ⑨ 元伊勢外宮 豊受大神社 京都府福知山市大江町天田内

 ⑩ 元伊勢内宮 皇大神社  京都府福知山市大江町内宮

⑪ 天岩戸神社(皇大神社奥宮) 御神体/日向山

⑫ 天橋立神社(橋立明神)  京都府宮津市文殊

⑬ 磯砂(いさなご)山(別名足占山)  京都府京丹後市峰山町(羽衣伝説)

 後輩の資料では吉佐宮の所在を未詳としながらも、羽衣伝説のある⑬磯砂山か、としている。そして丹波で四年間も天照大神を祀った後、豊鍬入姫命は何故か一度、倭に遷る。

 余談だが、神社を訪ねていると意外なことを耳にすることがある。この地での取材中に、三十数年前に起きた新宗教教団による元伊勢伝承社の乗っ取り事件の真相と、その後の顛末を聞かされた。國學院の小野祖教教授が神社本庁の特任の宮司として収拾にあたったが、当時、一部神社界でひそかに語られた訴訟事件だった。しかし小野宮司は係争中に病気で倒れてしまう。そして関係者により神社不在のような不明朗で奇妙な和解が成立して幕が閉じる。その間の事情や神社庁との軋轢を、憤懣やるかたない口調で宮司が語る長時間だった。神社入口には教団側の施設があり、教団で建立した境内社もある。事件はまだ続いていた。

(奈良 泰秀  H19年6月)