醸造元軒下の杉玉

 大物主神は、大国主命の別の名であり、同神とされる大己貴命の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山に祀られ、大神神社の祭神となった。物語の場面に現れる大物主神と大己貴命が同一神とは思えないが、元来は別の神格をもった神なのだろう。この神は、記紀ともに、“海を光(てら)して寄り来る神”、“神光海(あやしきひかりうなばら)を照し忽然(たちまち)に浮び来(きた)る者有り”と、海の彼方から出現する。神話の原型とも謂える海からやって来た光る神は、後に変身して電光を発する雷神となり蛇神ともなって伝承を創っていく。さらに大物主神は倭の国を造り、神酒を醸成した神、と詠(うた)われる酒造の神ともなる。大神神社の神木は杉の木である。醸造元や酒蔵の軒先に吊り下げられる“杉玉”は三輪の醸造神の憑り代としたものだ。また、大物主神は、天皇をも悩ます祟り神の一面も見せている。

 平安初期の国家の法制書である『延喜式』巻第八には、祝詞二十七編が記載されている。その最後に、新しく任命を受けた出雲国造が国へ帰り、一年間の潔斎を厳修して再度朝廷に上って奏上する「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)」がある。

 これに、“皇御孫命(すめみまのみこと)の静まり坐さむ大倭國と申して、己命(おのれのみこと)の和魂(にきみたま)を八咫鏡(やたのかがみ)に取り託(つ)けて、倭大物主櫛甕玉命(やまとのおほものぬしくしみかたまのみこと)と名を称(たた)へて、大御和(おほみわ)の神奈備(かむなび)に坐せ”(皇御孫命の鎮まられる処は大和の国ですと申し上げ、自分の温和な神霊である和魂を大きな鏡に憑り付かせ、倭大物主櫛甕玉命という立派なご神名を付け、大三輪の神の御山にご鎮座申させて)とある。これは大国主命の異称である大穴持命(おほあなもちのみこと)が天孫に国土を譲り、自身は出雲大社である杵築宮(きつきのみや)に隠遁するに当って、自らの和魂を大三輪の神奈備山に鎮めたという一節である。動的で勇猛な活動をする荒魂に対し、和魂は静的な平和と恵みを与える神霊である。和魂はさらに幸せと稔りを与える幸魂(さきみたま)と、奇跡を起こす霊妙な能力を発揮させる奇魂(くしみたま)に分けられる。

 このように記紀や出雲国造神賀詞で大物主神とは、大国主命とも大穴持命とも謂う大己貴命の和魂(幸魂・奇魂)であることが解る。大神神社起源の由来はこれらの記述に拠っているが、皇學館ご出身で祝詞研究者の青木紀元先生は『祝詞全評釈』のなかで、

 「三輪山鎮座の時点を、国作りの時から出雲の国譲りの時に変更した上で、更に出雲国造の立場から、三輪山に鎮まったのは天皇の朝廷の近き守り神となるためであるという要素を特に付加して、大和朝廷に対する出雲の忠誠を一層強く表示しようとしたのである。」

と述べておられる。新任の出雲国造が出雲の国を代表して宮中で奏上する出雲国造神賀詞から、記紀の記事との齟齬を指摘された。本来は出雲地方の大己貴命の国作り神話が、不自然さを伴いながらも記紀編纂時に一つの系統として統合されていったものだろう。そこには三輪山を神体山と仰ぐ先住氏族と、後からやって来た天孫族との軋轢も推測される。

 大物主神と三輪山にまつわる説話がいくつかある。書紀にある。崇神天皇が多発する災害について占うと、大物主神が第七代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に神懸かる。臣下の夢にも現れ、我を吾が子の大田田根子(記では意富多多泥古(おおたたねこ))が祀れば国は平穏になる、との託宣である。和泉国(大阪堺市)に棲む大田田根子を捜し出し、神主にして大物主神を祀ると、疫病はやみ国内は静謐となり五穀も実って民は豊かになった。後に、倭迹迹日百襲姫命は大物主神の妻となる。

 だが、大神はいつも昼ではなく夜に来る。朝にはお姿を見たいという言葉に、明日の朝に櫛笥(くしげ:筥)に入っていよう、私の姿に驚かないように、と言う。朝、櫛筥を見るとうるわしい小虵(こをろち:蛇)が居た。妻の驚き叫ぶことで恥をかかされたと大神は人の姿に戻り、大空を踏んで御諸山(三輪山)に登っていった。それを仰ぎ見ながら悔いた姫は座りこむ。そのはずみに箸で陰部を突き、死んでしまわれた。姫は大市(おほち)に葬られた。墓の名を箸墓と謂う。この墓は昼は人が造り、夜は神が造ったという。

箸墓古墳

 大市は桜井市箸中付近である。三輪山麓西側の古代に栄えた纒向遺跡の南端にある箸墓古墳は、日本最古の部類に入る全長二百八十mの巨大な前方後円墳である。古くより邪馬台国畿内説を支持する研究者からシャーマン的性格をもつ倭迹迹日百襲姫命は、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王・卑弥呼に比定され、この箸墓古墳は卑弥呼の墓と見られてきた。

 卑弥呼の没年は西暦二四八年頃である。古墳築造の年代がそれより数十年から一世紀近く遅い三世紀末から四世紀初頭とされ、可能性は薄いと思われて来た。小欄で前に新しく開発された炭素測定法で、弥生時代の開始が五百年遡る説が出たことに触れた。最近となり同じように炭素法や年輪年代法で古墳時代の開始年代を早める説が有力となった。神功皇后や倭姫命にも擬せられる卑弥呼だが、死んだ頃が古墳造築の開始年代に合致するとなると、あるいは倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼と断定される発見があるかもしれない。

 いづれにしても元伊勢伝承の、倭の“彌和(みわ)の御室嶺上宮(みむろのみねかみのみや)”の比定地ともされる笠縫邑、大神神社、高宮神社・神坐日向神社(みわにいますひむかひじんじゃ)を域内に収める神体山・三輪山への信仰の歴史は古い。

 三輪山の麓の芝村で出生された樋口清之博士は、遥か石器時代の遺物出土の可能性もあり、縄文前期には祭祀の形跡が見られると謂われた。そして山中で神聖視されてきた神霊憑依の磐座が、チタン鉄鉱や磁鉄鉱の結晶を含んだ黒くて硬い表層岩石の班糲(はんれい)岩であることを指摘された。班糲岩石に含まれる鉄鉱は砂鉄と同じ製鉄の原料となり、これが精錬されて鉄製品となる。三輪山麓の弥生時代の遺跡からは製鉄用タタラの火口やタタラ壁が多く発見されており、鉄精錬が行なわれていたことが実証されているという。事実ならばこの鉄精錬が三輪一族を富強にしたものと思われる。祭神の亦の名の八千矛神は武神だが、樋口先生は三輪の鉄文化との関連も考えられると謂われた。

 余談だが、十年前に帰幽された樋口先生は静岡県登呂遺跡の発掘始め考古学で多大なご功績を残された。歴史学の勉強を希望されて東大医学部を中退し、國學院で学ばれた。昭和の初め学生の頃、奈良県内で蒐集された考古資料数千点を大学に寄贈し、國學院大學の考古学資料館開設の道を開いた。私が学生時代には人類学を教えて頂いた。洒脱な語り口調の授業は学生に人気があった。学生服の襟に威圧的な空手部員の拳のバッジを付け、周囲と私語する態度を見咎められ、“おい、そこの…”と二度ほど注意されたことを想い出す。

 以前、空手部初代主将の小倉基先輩は都議会議長から転じて渋谷区長を二期務めた。選挙をOB会で応援してきたが、樋口先生にはご高齢を押して後援会長を引き受けて頂いた。樋口先生はご自身の郷里ということで三輪山や笠縫邑に就いて詳しく研究され、近くの古墳からは大変な遺物を発掘されている。

(奈良 泰秀  H19年10月)