当麻蹶速と野見宿彌が相撲を取った土俵 (相撲神社)

 前々回、シャーマン的性格をもつ倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が『魏志』倭人伝が伝える邪馬台国の女王・卑弥呼に比定され、葬られた三輪山麓に近い箸墓古墳が卑弥呼の墓とも見られてきたことで、“あるいは倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼と断定される発見があるかもしれない”と記述した。これに対しある神道系教団の幹部の方から、邪馬台国九州説を支持するわけではないが、安易に箸墓古墳を卑弥呼の墓と決めつけることは不適当ではないか、といったご意見を頂戴した。そして以前読んだ古代史研究家の大和岩雄氏の論文では、卑弥呼の墓は年数をかけず戦乱の間に急造されたもので、その墓からは多くの殉死者が葬られた形跡が出る筈だと謂われる。急拵えの陵墓で殉葬者の痕跡が見当たらなければ卑弥呼の墓ではないと言うのである。

 確かに倭人伝にある。「卑弥呼以(も)て死す。大いに冢(ちよう)を作る。径(けい)百余歩。葬に徇(じゆん)ずる者、奴婢百人余。(卑弥呼が死んだ時に、大きな塚を作った。それは直径百余歩ほどある。殉葬された者は、奴婢百余人である)」。そして男子の王を立てるが国中が服従せず殺しあい、千人以上が殺された。再び卑弥呼の親族である十三歳の壱与(台与とも)を女王に立てると、やっと国は治まったという。戦乱のなかにあって急いで築造された卑弥呼の墓の所在が、九州、大和を問わず、殉葬墓であることを見落としては論じられない、ということである。

 箸墓古墳の築造には延べ百三十万人を超える人々が動員され、十年以上の歳月を要したとする説がある。平成十年の台風で倒れた墳丘部の樹木の根元から、本来は吉備(岡山)地方から出土する弥生時代後期の特殊な土器や埴輪の破片が、三千点以上も発見されている。

 倭迹迹日百襲姫の弟の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこみこと)は、吉備国を平定したことで吉備津彦と名乗り桃太郎伝説のモデルともされている。その吉備地方と箸墓古墳の被葬者とは、深い関わりがあったことは間違いないようだ。大和政権が製鉄技術を獲得するために制圧したと思われる吉備と箸墓古墳の接点を、大和岩雄氏はどのように論評されているか解らない。だが大和氏は、殉葬の形跡が見つからない箸墓古墳を卑弥呼の墓ではなく、壱与の墓だとしている。

 日本書紀にも強制的に行なわれた殉葬者の記事がある。垂仁天皇二十八年、天皇の母の弟・倭彦命が薨じたので葬った。そのとき近習の者を集め、悉く生きながら陵墓の周りに埋めたてた。数日が経っても死なず、昼夜泣き呻く。ついには死んでしまい、腐っていくのを犬や烏が食べだした。天皇はこの泣き呻く声を聞いて悲しみ、臣下の者に、古来の風習とはいえ良くないことには従わないように告げ、以後は殉死させることを止めさせた。

 垂仁天皇三十二年、皇后の日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)が薨じた。元伊勢伝承を創る倭姫命の母でもある。天皇は群卿を召して殉葬の慣例を排した葬儀のあり方を問うた。かつて出雲から召し出され、角力で当麻蹶速(たいまのけはや・たきまのくゑはや)の腰を踏み折って殺し、その土地を領有して天皇に仕えていた野見宿禰がすすみ出た。そしてあることを奏上する。出雲から土部(はじべ)百人を呼び寄せ、埴土(はにつち)で人馬を始めさまざまな物を造り、これを献上し、“これからはこの土物(はにもの)を生きた人間に替えて陵墓に立てまして、後世の法則としましょう”と謂う。天皇はわが意を得たと大いに喜び、これを埴輪、または立物(たてもの)と名付け、“今後は陵墓には必ずこの土物を立て、人を傷つけてはならない”と命じられた。その土物は始めて日葉酢媛命の墓に立てられた。天皇は野見宿禰の功を篤く賞し、陶土の豊かな土地を与えられた。姓(かばね)も土部臣(はじのおみ)と改める。これが天皇の喪葬を掌る土部連(はじのむらじ)の起源で、野見宿禰は土部連の始祖となった。

 このように垂仁天皇が殉葬を廃し埴輪に替えたとする書紀の記事だが、その時代から遡れば殉葬が行なわれていたのだろう。古代の中国や朝鮮半島からはさまざまな文化や習慣が伝えられた。紀元前千七百前に王朝を確立した商(殷)とそれに続く周の時代に端を発し、朝鮮半島の新羅・伽耶地方にも多く見られた殉葬の慣行も、一緒に伝えられて来ていた。垂仁天皇の御世の実年数は、三世紀後半か終末期より四世紀前半の時代と推定されている。二世紀後半にはその存在が認められている卑弥呼の没年は三世紀中頃であるから、邪馬台国にはまだ殉葬の習慣があったのだろう。

 ちなみに書紀での年号初見となる大化改新の大化二年(六四六年)、「改新の詔」四条に続いて造墓の制を設けた“薄葬の詔”が発布された。薄葬令とも謂うこの詔勅は、天皇と一部貴族以外の古墳造営を禁止し、位階身分に応じて墳墓石室の規模・築造日数・動員数などを細かく規定して、従来の埋葬方法を縮小簡素化させた。人、馬の殉死の強制や、華美な副葬品を供えることも禁じた。七世紀中期の詔勅で殉葬を禁じているのは、垂仁朝以降もその習慣が或いは残っていたのかも知れない。それと、すでにこれより半世紀前には、時代の流れとして豪族達の前方後円墳の築造が中止されていた。古墳の築造も八世紀末には全国的に姿を消している。この薄葬令公布をもって古墳時代の終焉とする見方もある。人を犠牲にする殉葬の習慣は措き、未だ確定されない邪馬台国と卑弥呼の存在は古代史最大のロマンで、話題は尽きない。

 さて、本題の元伊勢に戻るが、邪馬台国の畿内説支持者に卑弥呼とも比定される倭姫命は、垂仁天皇と殉葬を回避した日葉酢媛命との第四皇女である。五十余年に亘り、天照大神の御杖代として奉斎してきた叔母の豊鍬入姫命が、日数を重ね老いたことで、(六)弥和の御室嶺上宮で交替した。

大神神社摂社・神坐日向神社

 この御室嶺上宮の比定地として残るは、③高宮神社(こうのみやじんじゃ)・神坐日向神社(みわにますひむかいじんじゃ)である。両社は大神神社の摂社であるが、論社であることで一項に括った。論社とは、式内社などの古社で、それと推定させるものが二社以上に亘り、いずれとも決定し難い神社のことを謂う。

 高宮神社は禁足地とされてきた三輪山の頂上に奥津磐座とともに在り、古来、神峰社、上宮(かみのみや)、神上宮(みわのかみのみや)なとど称されてきた。だが中世以来、この山頂に鎮座するのは神坐日向神社とされたようだ。『大和名所図会』には、“神坐日向神社は三輪山の嶺にあり、今、高宮と称す”とあり、室町時代の『三輪山絵図』にもそのように記載する。現在はどちらも小祠の姿ではあるが、山宮と里宮との関係にしているようだ。『延喜式』で調べてみると、巻第九・神名(じんみょう)の「城上郡(しきのかみのこほり)・三五座」に、「神坐日向神社〔大・月次・新嘗〕」が見える。延喜の制で大社に列し、月次祭や新嘗祭には案上の官幣に預かる由緒ある神社であった。山頂の高宮神社は大物主神の御子となる日向御子神を祀る。日向の御子とは神武天皇という説もある。

(奈良 泰秀  H19年11月)