伊勢國一宮・椿大神社 (猿田彦大本宮)

 今年もまた、私共の研究会が協賛している伊勢の神宮の外宮で行なわれたまがたま祭に参加した。その後、スタッフたちが運転する車で、元伊勢の伝承地を一週間ほどかけて廻って来た。現地に出向いての取材は今回が最後となった。『倭姫命世紀』、『皇太神宮儀式帳』などに基づいた元伊勢の比定地とされる神社、伝承があった神社が合祀される前の元地、所縁のある場所など、これまでに蒐集した資料で比定地とされる処は、これで全て尋ね終えた。折りに触れ研究会のスタッフや講座の受講生に、元伊勢研究ではうちはどこよりも詳しくなるぞ、と言って激励し、様ざまな資料を集めて貰った。そのこともあって四年近い間に取材の対象となる場所は、最初の頃は多いと思えた六十数ヶ所からいつしか数が増え続けた。終わってみれば当初予定した倍以上の、百二十ヶ所を越える比定地を尋ね廻った。

 史実ではない伝承をも含め、元伊勢伝承を経て創始された「伊勢の神宮」の起源について、もう一度整理してみたい。

 巷間の諸説は措いて、神宮の存在が史実として認められるのは、七世紀の天武天皇の時代である。五世紀の雄略天皇が、夢で豊受大神を山田原(伊勢)に迎えよという天照大神の神託を聞いたことが外宮起源とされるが(『太神宮諸雑事記』)、内宮はこの五世紀頃に成立し、七世紀後半の天武朝に内・外の両宮体制が完成したと謂う説が有力である。

   『日本書紀』(七二〇)には祟神・垂仁天皇の条に神宮の起源に関わる記述がある。天照大神の御霊代は祟神天皇の皇女・豊鋤入姫命に託され、倭の笠縫邑に祀られる。垂仁天皇の世となり豊鋤入姫命の姪となる倭姫命に代わられ、笠縫の地より巡幸の途に着く。書記に外宮の起源に就いては触れられていないが、この頃の実年代は、三世紀末か四世紀前半あたりと思われる。

  『古事記』(七一二)には神宮の成立起源は特に書かれていない。天照大神の御霊代と思金神の二柱を皇大神宮である“五十鈴宮に拝き祭る。”ことと、“登由宇気神(とゆうけのかみ)、此(こ)は外宮(とつみや)の度相(わたらひ)に坐す神なり。”の記述があるのみである。

  『古語拾遺』(八〇七)では、豊鋤入姫命が命じられ、笠縫邑に於いて天照大神の御霊代の神鏡と草薙剣を奉斎する。垂仁天皇の世となり倭姫命が代わって天照大神を奉じ、大神の啓示の儘に、その社殿を伊勢国の五十鈴川の川上に建立する。倭姫命は大神に仕える斎王となり宮殿を造営して留まる。高天原で天照大神が前以って現れない約束をして皇孫を待っていた猿田彦神が、始めにこの地に降ったのには深い理由がある、と謂う記事がある。

 後の鎌倉時代に成立したと思われる倭姫命世記は、この古語拾遺と、皇大神宮の年中行事・鎮座の歴史・神宝の細目・造営の制度などの詳細を注記した皇太神宮儀式帳(八〇四)での記事を潤色加筆している。世紀には、倭姫命は猿田彦神の後裔で宇治土公(うぢのつちきみ)の祖先である大田命から神域を献上され、かつて、天上から天照大神が投げ下した神宝が鎮まる五十鈴の川上に辿り着くことができた、とある。そして“天照大神を度遇(わたらひ)(度会)の五十鈴の河(かわ)上(のへ)に遷し奉る。”と記している。

 ちなみに猿田彦神と大田命を祀る猿田彦神社は神宮内宮の近くにある。祭神の末裔とされる宇治土公氏が宮司を務めている。祭神は元々、神宮の神職で
禰宜に次ぐ重職の玉串大内人(おほうちむど)を代々務めていた宇治土公氏の邸内に祀られていた屋敷神であった。明治となり公認されて新たに社殿を造営し、さらに昭和にはいり拡張の造営を行い現在に到っている。筆者の師の先々代宮司は、神宮参拝にあたっては道ひらき・導きの神として始めに猿田彦神社の参拝を奨めていた。しかし全国で二千社を越す猿田彦神を祀る神社の総本社は、この猿田彦神社ではないと謂う。昭和の初めの調査で、鈴鹿市の伊勢国一ノ宮の椿大神社が“地祇猿田彦大本宮”と認定されている。このことに就いては周囲の論争があるようだ。

 さて、神宮に関する書籍は数多い。神宮司廰が編集した『神宮史年表』(二〇〇五)の引用書名はゆうに千冊を超える。元伊勢の伝説は、書記の“菟田の篠幡(ささはた)から近江國に入り東の美濃を廻って伊勢國に到った”とする記事に端を発する。それが神宮の公的記録書である先の儀式帳には「大神を頂き奉りて願(ね)ぎ給ふ國を求め奉る」として十五ヵ所の巡幸地が記されている。国書である書紀には数多くの説話がある。そのうちの一つが神宮の起源だが、神宮の記録のみを記す儀式帳は、それを基に独自の神宮成立までの物語を作り上げたものであろう。伊勢神道・渡會神道の教典である神道五部書の一書・倭姫命世記では更に膨張する。天照大神は二十数ヵ所に巡幸地の伝承を残し、五十鈴の河上に鎮まり給うた。

 この世紀を始め、神道五部書は偽書性が強い。以前述べたが、明治初頭の大教宣布運動に伴い神宮司廰に神宮教院が設立される。この教院から神道五部書は皇祖を冒涜する偽書として指定すべきだと謂う要望書も提出されたという。神道五部書は確かに江戸時代から神道家や学識者の評価は低い。三重県明和町で昭和四十五年から神宮に仕えた斎王の宮殿跡が発掘されて来ている。その斎宮史跡の一角にある、三重県立の斎宮歴史博物館のコラムを読んだことがある。神宮通を自称するマスコミや著名な学者が、日本書紀と倭姫命世記の区別もつかず、世記から復元した地図で、初代斎王倭姫命の事跡を検証するといったことを平気で語る態度を嘆いている。斎宮歴博では世記にのみ見られる倭姫命伝説は歴史資料として扱っていないそうだ。

 しかし、史実と創作の挾間にある元伊勢伝承にはときを超えたロマンがある。倭姫命の巡幸伝説は伊勢への信仰の想いを昂め、或いは神社の創建や由緒に加えられ、その土地の新たな伝承を生み、歳月と共に土着化していった。更には、虚偽や曖昧さを乗り越えた素朴な信仰心は、遥か遠い古代への憧憬へと繋がっていく。これまで元伊勢伝承のあるほぼ総ての神社に足を運び、その都度神前で手を合わせ、時には石笛を吹いて神気を戴いて来た。なかには荒れた神社もあったが、多くは“おらが鎮守”の意識で守られていた。氏子が減り続けていくことに、地元が今後どのように対応していくかという問題点も垣間見た。

 次回は急ぎ足だが倭姫命の、弥和の御室嶺上宮からの残りの足跡を辿りたい。

(奈良 泰秀  H19年12月)