秦楽寺境内の笠縫神社

今回、元伊勢を調べることでさまざまな書物やレポートなどの参考文献に眼を通す機会を得た。だがその伝承の成立の過程を明確に納得させるような論述は、ほとんど無いに等しい。前回までくどく偽書説を取り上げたが、元伊勢について個々の専門的な解明が為されていないのは、教学書としての存在は認めても偽書説もある神道五部書の倭姫命世記の記述からその伝承が派生しているからだろうか。

もとより倭姫命世記は、伊勢神宮の恒例神事や年中行事の詳細を記して九世紀初頭に神祇官に提出された延暦儀式帳ともいう皇太神宮儀式帳・止由氣宮儀式帳や、古語拾遺、延喜式などの所伝から借用した部分が多い。それらをさらにさかのぼれば国史・日本書紀に辿り着く。この紀で元伊勢に関わる地名が記されているのはほんの僅かだ。

第十代崇神天皇の治世下に、それまで宮中に奉斎されていた天照大神の御霊代を皇女豊鍬入姫命に託し、“倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいむら)に祭ひまつらせたまふ。”次の垂仁天皇の御世に豊鍬入姫命より倭姫命に代るが、倭姫命は大神の鎮め奉る處を求め、“菟田(うだ)の筱幡(さきはた)に詣(いた)る。更(また)還(かへ)りて近江國に入り、東(ひむがしのかた)美濃を廻りて伊勢國に到りたまふ。”とあるように、土地の記述は倭の笠縫邑、菟田の筱幡、近江國、美濃、があるのみだ。

それが皇太神宮儀式帳では、倭姫命の巡幸地の十四社が記されている。そして倭姫命世記になると、約六十年の年月を掛けて二十五回も各地で遷宮を行ったことになっている。始めは山あいを流れていた渓流に他の小川からも流れ込み、やがてさまざまなものを飲み込んで一筋の川になったようなものだ。

多神社(多坐弥志理都比古神社)本殿

平成五年に大阪府神社庁が編した『伊勢の神宮』【ヤマトヒメノミコト御巡幸のすべて】が発刊されている。この本は倭姫命世記から比定される神社と思われる二十七社を紹介している。出版の指導にあたった甲南女子大の垣田時也教授は、「それらの倭姫命の巡幸伝承の地が、伊勢信仰の展開に沿って伝承が土着化してその多くが神社の創建となり、倭姫命の巡幸が事実であるかのように現在に息づいているのである。」と、伊勢の神宮への信仰が、架空のものを現実化していったものとしている。それは言い方を変えれば近畿・中京圏などで、かつて倭姫命が通ったと思われる場所は、何処でも元伊勢になり得るのだ。更に「ここに日本人の敬虔な信仰心と神宮に寄せる愛着心の並々ならぬものを感じるのである。」と云っておられる。勿論敬虔な信仰心もあるだろうが、宗教的な寛容さ、信仰に対する大らかさ、それに曖昧さといったものがない交ぜになって元伊勢伝承となったものだろう。

神仏画家の片山景空という方が二年以上の時間をかけて現地を巡られ、スケッチも入れた『倭姫命御巡幸地』を三年程前に出されている。さきの大阪府神社庁の伊勢の神宮や倭姫命世記その他の書籍を参考にされたようだが、この本には比定地とその周辺の、此処はと思われる神社を始め、世記の文中に登場する鎮座された以外の神社を含めて約百五十の神社を載せている。第二十九回で触れた空手部の後輩の岡山・内宮も取り上げられている。

手近かなところにある神道学究が神道の知識について著した本のなかに、元伊勢について一行の記述も無いものが多いが、國學院で祝詞を教えている金子善光氏が数行だが『神道事始め』で次のように書いている。「(略)今日なお近畿圏・伊勢湾岸などには《元伊勢》を称する神社が点在する。この伝承は大御神が鎮座地として清らかな所を求めたことを語るものであるが、同時に神を祀る清浄な場所に関する説明ともなっている。」

多神社摂社 姫皇子命神社

元伊勢とはそのようなもので良いのではないかと思う。比定地とされる神社で「元伊勢などというものは無かった。太陽崇拝と政略と祭事が習合し、それが各地に拡散していった。」と云う宮司もおられたが、長い民族の歴史を持つ我われが信仰のなかに古代への想いを馳せ、内なる敬虔な心を揺り動かせされることがあればそれでいいのではないだろうか。

さて―、崇神天皇が豊鍬入姫命に託して大神を祀らせた倭の笠縫邑とは何処か。その所在地については以前より諸説あるが、明確な場所の特定はされていない。現在、笠縫邑の比定地とされる場所は何ヵ所かあるが、そのうちの一つとされる笠縫の名前の付いた神社が奈良県磯城郡田原本町秦庄の秦楽寺(しんらくじ)という真言律宗の寺の境内地にある。この辺り一帯を笠縫邑とする伝承があるという。

だが此処の天照御大神を祀る笠縫神社は驚くほど小さく、間口は僅か四十五センチ程の祠といった規模のもの。左側にはそれより二周りほど大きめな春日神社が並んでいる。

この秦楽寺の表門は中国風造りの土蔵門だが、大化三(六四七)年に聖徳太子の側近といわれた秦河勝により創建されたという。秦氏の祖は百済国より一族を率いて帰化したというが、この辺りの周辺には秦姓の表札を掲げる家も多く、まさに“秦の庄”が現在に生きている感じだ。秦楽寺の本尊の千手観音像も、当初のものは百済王より賜わったものという。秦楽寺は弘法大師も逗留した由緒ある寺だが、なに故に秦氏一族の氏寺とも思える処に元伊勢伝承が存在するのか…。伊勢神宮の創建に秦氏がなんらかの関与があったのか…。此処はふとそんな興味を起こさせる。

太安萬侶を祀る小杜神社

そして、この笠縫邑に比定されている処は他にも幾つかある。この笠縫神社と同じ田原本町の多にある多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社、一名多(おほ)神社と、その摂社で徒歩圏にある姫皇子命神社も有力視されている。どちらも延喜式内社の古社だが、多神社は本殿が東西に一間社の春日造りの四殿を配祀する珍しい形式をとる。祭神は東から神武天皇、その皇子で多氏族の祖神となる神八井耳命(かむやいみみのみこと)、後に綏靖天皇となる神淳名川耳命(かむぬなかはみみのみこと)、神武天皇の母神の姫御神(玉依姫)の四神を祀る。かつての多神社は大神神社の二倍以上、他の神社の十倍もの経済力を有する大社であったという。多氏族は大和平野に大規模な稲作の農法を伝えたと言われ、その一族は畿内始め常陸、信濃、九州、四国などの各地に散っている。古事記を撰録した太安萬侶も多氏の一族だという。近くに安萬侶を祀る小杜神社がある。

摂社の姫皇子神社の祭神は天照大神の若魂とするが、姫は日女で、日の御子を生む日女伝承と繋がるとする識者もいる。

(奈良 泰秀  H17年7月)