ヘンリー・フォード

話しをするのは苦手なほうだが、時々講演を頼まれる。九月中旬の講演会では、神道のテーマから離れ、偽書と言われる『シオン長老の議定書』を選んだ。今回の講演会に竹内文書の皇祖皇太神宮管長・竹内康裕氏をゲストにお願いしたこともあって、問い合わせが相次いでいる。アカデミズムでは決して取り上げないテーマに、なぜ世間の人々が関心を抱くのか、改めて考え込んでいる。

百年前に現れ、いまだに真贋論争が続いている『シオン長老の議定書』は、単に「プロトコル」とも言われ、題名も“シオン賢哲の議事録”、“シオン賢者のプロトコル”、“ユダヤの議定書”などさまざまだ。この本は二十世紀の世界を予見しながらも反ユダヤに向かわせる以外の何ものでもないが、一九二〇年代から三十年代を頂点として隠れた大ベストセラーだった。ロシア語で初めて世に出た以後、独・英・仏始め世界各国版が次々と刊行され、各地でセンセーションを捲き起こした。我が国でも戦前から翻訳がなされ、戦後になってもさらに邦訳が続けられている。

それは会議の議事録の体裁をとった百ページを超える程度の冊子。二十四項から成る内容は支離滅裂で論理的一貫性を欠いたお粗末な部分を指摘されながらも、世界の近代史に計り知れない影響を与えた。

ヒトラーの『わが闘争』や、ナチの東方占領地域大臣アルフレド・ローゼンベルグの『二十世紀の神話』の反ユダヤ思想には、このプロトコルが色濃く投影されている。そしてそれが巨大なイデオロギーと化し、二十世紀最大の悲劇・ユダヤ民族大虐殺(ジェノサイド)につながっていく。

私の手許にはコピーも含め幾種類かのプロトコルがあるが、そのうちの一冊は冒頭に、“ユダヤの陰謀を窺い知る必読の書”とある。

「これは“ユダヤの神エホバから選民されたユダヤ人のみが人間であり非ユダヤはすべて家畜(ゴイム)である”とする教義(タルムード)に基づき二千年に亘り蓄積したぼう大な資本力と謀略を駆使し、地上のあらゆる国家、機関、組織、フリーメーソン人脈を利用し尽し、双頭戦略とかくれみの戦術(ジェンタイル・フロント)で世界支配と人類総奴隷化を完成しつつある見えざる帝国、国際主義パリサイユダヤの恐るべき謀議の記録(プロトコール)である(後略)。」

タルムードとは口伝での聖書解釈を編纂し、二世紀末に成文化された。ユダヤ教徒の信仰と生活信条の根幹をなすものだ。

ユダヤ民族の歴史は“ノアの箱舟”のノアの末裔とされる族長アブラハムから始まるが、わずかか百年足らずのダビデ王とソロモンの栄光と平和の歴史と、捕囚と奴隷と離散を繰り返す屈辱の長い歴史を持つ。そして帰る国を持たず、一九四八年のイスラエル建国までの約千九百年に亙って流浪を強いられたユダヤ民族は、各地で異族への異端視と、選民思想の排他的な教義と、キリスト殺しの民と教え込まれたゆえの迫害と反感のなかで生きてきた。

プロトコルの最初の刊行者は一般的にはロシアの神秘思想家、セルゲイ・ニルスなる人物とされている。彼の著書『卑小の内なる偉大』の初版が一九〇一年に発刊され、その四年後の一九〇五年の秋に出た第三版に、付録としてプロトコルが収録された。

だが、実際はその二年前にペテルスブルグの極右紙「軍旗」が、何度かに分けて掲載している。さらにニルスが刊行した同じ年に、編集者の明記のない冊子が『諸悪の根源』と題して発行されている。つまりニルスが刊行した頃は、プロトコルは既に出廻っていたのだ。

当時のロシアは前年に勃発した日露戦争の最中で革命運動が昂揚し、世情は騒然としていた。生活苦の解消、言論出版の自由、憲法会議の召集、日露戦争の中止などを皇帝ニコライ二世へ請願のため宮殿に向かうデモ隊に軍隊が発砲し、三千人以上の死傷者が出て、これが第一次ロシア革命の引き金となった[血の日曜日]事件が起きた年だ。

革命前夜の帝政ロシアで、人民の意識を他に向けるため極右愛国団体によって仕掛けられたポグロム(ユダヤ人虐殺)を扇動し、社会主義者や自由主義者を操るユダヤを抹殺するという体制側によって創られた構図のなかで、プロトコルは出るべくして世に出た本と言えよう。

ニルスは、この議定書は、一八九七年にスイスのバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議に於ける決議から抄出したものだという。また「軍旗」には、フランスに滞在中の神智学に傾倒していた外交官の娘、ユリアナ・グリンカが持ち込み、『諸悪の根源』は、革命派、社会主義者の暗殺とユダヤ人虐殺を目的とした極右団体「黒百人組」の創設メンバーが発行したものと言われている。

ブラジル版表紙(1937年)

このようにプロトコルは出所も作者も曖昧だが、後年、幾つかの状況証拠から、当時フランス国内で諜報活動を行っていたロシア秘密警察の幹部が部下に命じてパリで捏造したものとみられている。

これの底本になったのが一八六四年に発刊された『モンテスキューとマキャヴェリの地獄の対話』。著者は弁護士だったモーリス・ジョリー。王政を批判して三権分立を唱えたモンテスキューと、「君主論」のマキャヴェリに仮託してナポレオン三世を批判した書だ。のちにジョリーは逮捕されて刑に服すが、出獄後は人生を見限り自殺してしまう。この本はユダヤなどまったく無関係だったが、“フランス”を“世界”に、“ナポレオン三世”を“ユダヤ教徒”を置き換え、加筆されてプロトコルに仕立て上げられる。

一九二〇年の初め、敗戦であえぐドイツにプロトコルは『シオン賢者の秘密』として登場する。出版元は「ユダヤ人の傲慢に抗戦する協会」という名称だったそうだ。この年には英語版が刊行され、ここからプロトコルは燎原の火のごとく拡がっていく。イギリスでは『ユダヤ禍』という題名が付けられた。これをタイムズ紙が取り上げるが、しかし翌年、ジョリーの『地獄の対話』と対比させ、偽造文書であることを発表。イギリスでのプロトコル騒動は終息に向かう。

だが同じ二〇年、アメリカでは驚くことに自動車王ヘンリー・フォードが、所有する「ディアボーン・インデペンデント」紙上で連載を始めた。秋には『国際ユダヤ人』として発売される。この本はアメリカ国内で約五十万部を売り上げ、さらに十六国語に翻訳された。ここでプロトコルは世界的にその存在を知られるようになる。だが七年後、周囲の抗議や訴訟などで遂にフォードは内容を否定し、本の回収に同意する。

しかし一度知らされた情報は独り歩きを始め、消火されたはずの山火事が再び風に煽られて燃え出すように、世界の何処かで新たに印刷されていった。

つい二ヵ月ほど前だが、『シオンの議定書』をシオニズムの中心文書とする記述を教科書から削除することをパレスチナ自治政府が約束した、という報道を見た。アラブ世界ではプロトコルはまだ真正の書なのだ。

(奈良 泰秀  H17年9月)