石上神宮 拝殿

一年の一日ごとを、祭神の働きや自分の誕生日との関わりで、参拝する神社を決めようという神社紹介を兼ねた本の執筆に執りかかった。進み具合は順調とはいえないが、出版社からこちらで選んだ全国の三百を超える神社あてに情報提供のお願い書を発送した。

主祭神名や配祀神名をはじめ、通称名とそのご神徳、由緒、伝えられている特殊神事、年中行事、一年のうちの最も重要な日の伝承とその理由などのほか、駐車場や神宝館の内容、神葬祭や結婚式の執行の有無、神社のPR事項など、知らせて欲しい情報の項目は多岐にわたる。すでに百数十社からの返信が出版社から回送されてきている。

最近、ある映画の撮影のなかで演じられる、古神道と道教が習合した秘術の修法の作法と、祝詞奏上の指導を頼まれた。ここで奏上されるのが奈良の石上(いそのかみ)神宮に伝わる十種祓詞(とくさのはらへことば)。以前、小欄の「物部の神の復権」で、饒速日命について触れた。石上神宮には、その御子で父神から鎮魂の主体である十種瑞宝を継承し、それを宮中に奉斎した宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が主祭神と共に配祀されている。日本最古の社の一つといわれる石上神宮については後に述べるが、毎年、新嘗祭の前日、十一月二十二日の夕闇迫る頃から斎行される特殊神事の鎮魂祭は有名だ。

鎮魂祭神事を斎行しているこの石上神宮を始め、島根の物部神社、新潟の彌彦神社からも出版社あてにそれぞれ資料が送られて来た。また、石上神宮と物部神社とも関係が深く、十種祓詞を挙げ、宮司も物部姓を名乗る備前一ノ宮・岡山の石上布都魂神社(いそのかみふつのみたまじんじゃ)からも同様に返信を頂戴した。

この石上布都魂(いそのかみふつのみたま)神社は、延喜式神名帳に石上布都之魂神社と記された式内社だ。かつて明治に到るまで韴霊(ふつのみたま)神社、経津霊神社(ふつのみたまじんじゃ)などと社名を変えている。祭神は、江戸時代後期の寛政年間に岡山藩士が編纂した吉備温故秘録では「布津御魂」、明治初年の神社明細帳では「韓鋤劔(からひさのつるぎ)・羽羽斬劔」と記されている。明治六年の郷社列格の際に、主祭神を素盞鳴命に変更し、社名も現社名となったという。当時、御霊を祭神にすることが憚られたとする説もあり、祭神名変更となったようだ。

神社の鎮座地は岡山の北方、旧赤坂郡。また鳥取とも云われた一帯にある大松山山頂にあった。明治四十年の大火で社殿や神楽殿が焼失し、大正四年に山中中腹の現在地に再建された。以前の山頂の拝殿跡に小社を置き、ここを本宮と称する。その背後にある岩石地帯は磐座信仰の遺跡といわれ、附近は禁足地となっている。この禁足地内の石の配置や溜水の形状などから、道教を起源とする北辰信仰の跡と観る研究者もいるようだ。また、溜水は以前から神泉の水ともいわれ、現在もこれを取水していく者もいるとか。

この石上布都魂神社には、石上神宮に鎮座するまで祭神を祀っていたという伝承がある。

岡山・石上布都魂神社 磐座上の本宮

社伝によれば、それは『日本書紀』の巻第一・神代上の「一書(あるふみ)に曰(い)はく」にあるとする。素盞鳴命が八岐大蛇を退治した後、“「虵韓鋤之劔(をろちのからさひのつるぎ)」で大蛇の頭や腹を斬り、その尾を斬った時に剣の刃が少し缺けた。尾を裂いて看ると一劔が現れた。この劔を名づけて「草薙劔」とした。この劔は、昔は素盞鳴命の許に在ったが、今は尾張國にある。”そして、「其の素盞鳴命の虵(をろち)を斷(き)りたまへる劔は、今吉備の神部(かむとものを)の許(ところ)に在(あ)り」の記述があり、神部(かむとものを)は神主で、神社の伝記はこれに拠っている。また、神剣「十握劒(虵韓鋤)」を石上神宮に奉遷したことが石上神宮の記録にも残されている。大正十五年発行の石上神宮由緒記に、「(略)斬八岐大蛇とありて、もと備前国赤坂宮にありしが、仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る」とある。

韓鋤とは朝鮮半島からもたらされた剣とも謂われている。素盞鳴命が天降った出雲の“簸之川(ひのがわ)”上流地帯は砂鉄の産地に近く、帰化人が製鉄に従事していた。草薙剣は彼ら帰化人の技術により国産鉄器の完成として、韓鋤とともに神話に投影されているとの解釈もある。或いは鉄製品が出雲から備前を経て大和へ移動した経緯もあったと思える。いずれにしても古代の鉄器文化を背景として、序々に統一国家体制が築かれていったことは間違いない。

本題に戻るが、実証は乏しく、元来の伝承地の本宮所在地については異論もあるが、各地に元伊勢伝承があるように、この石上布都魂神社も古社・石上神宮の元社・元石上だ。神社の創始は不詳だが、ここでは神社神道の在りかたのように祭神が鎮座する以前から、縄文時代から続く神籬信仰の磐座祭祀が行われていたと考えられる。

熱田神宮、大神神社、石切劔箭神社などの神社に四十年近く奉職し、退職後は独自に古神道講座などを開催していた小林美元師は、昨年帰幽されたが、生前は晩年まで熱心に磐座信仰を説かれていた。石笛などを通して交誼を頂いていたが、以前、石笛を携えてこの神社の磐座を訪れたことがあると聞いた。美元師の磐座信仰への回帰は、永年とどまっていた神社神道の枠内から解き放たれ、古神道原理に目覚めたものと私は解釈している。

さて、備前・石上布都魂神社から十握劒(虵韓鋤(をろちのからさひ))を遷されたとされる石上神宮は、延喜式神明帳には石上坐布都魂神社と記され、明治四年に官幣大社に列格している。大和盆地中央東寄り、龍王山の西麓の布留山北西麓に鎮座する。境内地はうっそうとした樹木に覆われ、太古の自然の姿と、厳粛な気配をいまに残す。天岩戸神話に「常夜の永鳴鳥」として登場する鶏を御神鶏として大切に保護しており、天然記念物の東天紅などさまざまな種類の三十羽の鶏が境内で野生をとりもどし、参詣者の心を和ませている。

当宮は当初より本殿が存在せず、拝殿の後方にある禁足地とした聖域を布留高庭、御本地と謂い、これを奉斎してきた。社伝ではその中央に主祭神となる神宝「韴霊(ふつのみたま)」が埋斎され、他の諸神は拝殿に配祀されていた。この拝殿は永保元年(一〇八一)、白河天皇が鎮魂祭のため宮中の建物を移設したものと伝えられ、その後幾度か修復されているが、現存する拝殿では日本最古のものだ。国宝でもある。

明治七年、ときの大宮司が官許を得て禁足地の聖域を発掘。御神体の出御を見る。その後、禁足地は後方に拡張され、大正二年(一九一三)、現在の本殿が竣工。その工事の際にも神剣や勾玉などの夥しい遺物が出土したようだ。この本殿築造までは聖域に磐座・神籬を設け、祭祀を斎行してきた。

かつては、石上振神宮、石上布都大神、布留大明神などとも称された石上神宮は、古代から武門の物部氏の総氏神として布都御魂大神を主祭神とし、さらに布留御魂大神(ふるのみたまのおほかみ)、布都斯魂大神(ふるしみたまのおほかみ)を祀り、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、白河天皇、市川臣命を配祀する。

(奈良 泰秀  H18年11月)