「山上の垂訓教会」で大祓詞を奏上

季節の変化に合わせた陰暦では、立春より新年とする。新しい年が動き始めた。今年は干支で謂う戊子(つちのえのね)の年である。この干支の年は、万物の成長を育む大地に陽気を受け新たな草木が芽生えて繁茂するが、秩序ある成長を促すための剪定と整理が必要との意味がある。今年は大局的に物ごとを捉え、混沌の中から本物を見極める眼力が必要のようだ。

最近は羽根つきなど正月の風物詩的な遊びの風景をあまり眼にしなくなった。日本髪や晴れ着姿はほんの少数派だ。正月初めの忙しさを一段落させて楽しみにしていた能舞台を観に行き、女性の観客に和服姿が多いのにはなぜかホッとさせられた。

宝生流の辰巳満次郎師が神事能・『翁』を舞われるので、世界救世教の祭典部職員の数名と東京水道橋にある宝生能楽堂に出掛けた。満次郎師は救世教祭典部で永年仕舞を指導しておられる。私もおなじく祭典部で祭事講習を行なっていることでご縁を頂いた。

『翁』は、能の源流である散楽に起源するが、散楽は猿楽、神楽の申楽へと転訛して能・狂言へと発展し完成した。能の原点にある『翁』は“能にして能にあらず”と言われ、出演者は精進潔斎して舞台に臨み、天下泰平・五穀豊穣を祈願する神事儀式と比定される。世俗の雑事を忘れ、暫し幽玄の世界に浸り、伝統芸能の粋に感銘を受けた。

昨年末は、それとは違う複雑な感銘と戸惑いを異国の聖地で体験した。そこには一途な敬虔な祈りと、信仰が生む他宗教への憎悪と争いとが宿命的に歴史に刻まれていた。

今回は「元伊勢原像」を休稿して、未だ日の浅いイスラエルでのことに就いて記したい。

旧臘(十二月)四日より一週間、「中東和平イニシアチブ(MEPI)」の第三十三回会議に招かれ、開催地のイスラエルを訪れた。“中東和平に関する超宗教サミット”と位置付けられたこの会合は、「中東平和の確立」を目的に、キリスト教・ユダヤ教・イスラームの相互理解のための対話と融和、協調推進を掲げる。

世界各地で頻発する紛争には宗教間の闘争が深く関わる。この国際会議は、平和の確立には政治・軍事のみならず、宗教間の対話が必要不可欠としてその積み重ねを続けて来ている。全世界の四十一カ国から元首クラス始め、二百余名の各界指導者が参加した。日本からは私を含め仏教界ほか国連元高官、大学教授など十名が参加した。MEPIは活動の一環として国連に宗教議会の設置を提唱している。肥大化した国連の動きは鈍いが、米同時多発テロ後に開始されたこの活動は、内容では国連規模に遜色なく進行しているようだ。

人口が七百万人で面積は日本の四国程度の広さのイスラエルは、私にとって初めて訪ねる国である。以前、小欄に若い頃のアラブでの旅を書いた。イスラエルの入国スタンプを押された旅券では、敵対するアラブ諸国で厳しい尋問か入国拒否の懼れもあり、当時イスラエルへの旅など思いも拠らなかった。その頃から二、三年ほど遡る昭和四十七年(’72年)五月、テルアビブ・ロッド空港で百名が死傷した銃撃乱射事件が起きた。凶行に及んだのは日本赤軍である。二名は死亡したが、生き延びて投獄された岡本公三はアラブ世界の英雄となった。東洋人が引き起こしたこの事件はパレスチナ問題を世界中に知らせた。それがアラブの国々に評価されたのだ。あの頃、アラブでは日本人というだけで歓迎された。

あれから三十年以上の歳月が過ぎた。銃撃事件後にロッド空港は初代首相の名前を冠したベン・グリオン空港となった。今回、会議への招聘が身元保証となり緩やかな状況で入国できたが、空港での出入国審査は厳しい。特に出国審査は厳しく三時間が必要とされる。希望すれば別紙にスタンプを押してくれるが、スタンプひとつでシリアを始めレバノン、イエメン、リビア、スーダンなどには入国できなくなる。イスラーム教徒の多いマレーシアやブルネイでも入国を拒否されるようだ。三十年前と状況は少しも変わっていない。

余談だが六年前にテレビ朝日「ザ・スクープ」で、“岡本公三独占初告白”が放映された。岡本は現在もレバノンに在住している模様だ。

さて、会議は当初、イスラエル北部のガラリア湖畔にあるティベリアという町で開催された。その後はエルサレム、そしてパレスチナ自冶区のラマラに移動して行なわれた。セッションにはきめ細かなテーマが取り上げられ、連日活発な論議が展開された。会議中の言語は当然英語だが、アジア・アフリカ・中南米からの参加者もおり、フランス語・スペイン語・ロシア語・アラビア語、そして日本語での同時通訳で進められた。英語の不得手な数名の日本人のために、滞米生活が三十年近くの、国連などで活躍するプロが担当した。討論会でときには語気を強めた議論もあり、激しさを露わにする民族性も垣間見えた。風景が一変したパレスチナ自冶区内でのセッションでは、討論の後、ユダヤ教ラビとイスラーム指導者の和解に向けた抱擁は感動的だった。異宗教間対話の必要性を切実に実感した。

期間中は会議のほか各宗派に依る早朝祈祷会と、参加者全員がバスで移動しての聖地巡礼が行なわれた。ドルーズ教の聖地、聖母マリアが受胎告知を受けたナザレの受胎告知教会、祝福の山などの聖地で、それぞれの宗派の代表が前に立ち祈祷を行なった。他にもイエス・キリストが誕生したベツレヘムの聖誕教会、千九百年前に破壊され残された神殿の西壁・嘆きの壁、十字架を背負わされたイエスが辿った悲しみの道などへの訪問があった。

荒涼とした砂漠地帯のこの地に、数千年前から人が住み、我われの木の文化と違う石の文化で世界最古の都市を造り、繰り返される侵略のたびに多くの血が流されて来た。この国の数多くの聖地の存在は、人々に祈りの覚醒を促しているようにも思えた。

初めの会場となったシェラトン・ティベリアに面したガラリア湖は絵のように美しい。海抜下二百メートルを超す世界一低い場所にある。周辺には歴史ある宗教的建造物が多く、イエスはこの地で数々の奇跡を起こした。湖を見下ろす小高い丘に先の祝福の山がある。山上の垂訓が語られた場所として名高い。此処で宣教活動を開始したイエスが、十二使途を選んだとされる。八角形の山上の垂訓教会の野外礼拝堂で、岩笛を吹き、大祓詞を奏上した。二百名のなかには初めてシントウという言葉を識ったひとも居たようだった。

会議の閉会後にヘブライ大学の名誉教授、ベン・アミー・シロニー博士をお訪ねした。京都でお会いして二ヵ月振りの再会だったが暖かくお迎えして頂いた。(別掲)今年の秋の来日に合わせてのご講演も快諾して頂いた。短い期間だったが有意義かつ充実したイスラエル滞在の一週間であった。

( 奈良 泰秀   H20年2月)